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ミャンマーでの医療活動は自分との約束を守るため(ジャパンハート吉岡秀人の人生)

「何故かというと、20歳の時に僕が思ったことを30歳の自分が裏切れば、30歳になった時の自分の約束を40歳の自分が裏切る。40歳の約束を50歳の自分が裏切る。そうやってきっと僕はもし自分を一度裏切れば、ずっと自分を裏切り続けて生きていくんだろうと思ったんです。だから取り敢えず自分との約束は果たそう、自分の過去との約束ですね、それを叶えようと思ったんですね。そして30歳になった時にミャンマーに行ったんですよ。」と語るジャパンハート吉岡秀人氏のいきざ生き様と現在の取り組みについてICCの勉強会で講演いただきました。 ジャパンハート吉岡秀人の人生の(その1)をご覧ください。

カンボジア病院建設プロジェクトも合わせて是非ご覧ください。
リンク:http://irodorucambodia.org/

2016年3月14日開催
 ICC SALON「ジャパンハートのこれまでとこれからの取り組み」

(スピーカー)
 特定非営利活動法人ジャパンハート代表 吉岡秀人 氏

吉岡秀人氏(以下、吉岡氏)
僕は海外医療を始めたのは1995年だったんです。

医者になった動機がありましてそれは何かというと、僕は小さい頃、1965年生まれなんですけど、太平洋戦争の戦後20年経った頃に生まれたんですね。

僕の家は大阪の吹田市というところなんですけど、新大阪の隣ぐらいの所なんですけど、当時国鉄の駅の改札を出ますと、50メートル位の地下道があって、それを階段を登ると地上に出るんですね。

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その改札を出た後の長い暗い地下道に、物乞いがずーっと座ってるんですよ、両方に。ずっと物乞いが座ってて、カンカンを置いてたくさんの男の人達が座ってたんですよ。

この人達はみんな実は同じ恰好をしていまして、それはどんな恰好だったかというと軍服なんですよ。20年前の戦争の時の傷痍軍人の人達なんですね。1965年、戦争が終わって20年たってますから、すでに東京ではオリンピックが終わってて、日本は大経済復興を遂げている最中ですね。

僕はまだ小さい頃ですから、4、5才の頃ですね、大阪の吹田市で大阪万博が開催されようというところで、すごい時代ですよ。正に光と影で、その時代に軍服した人達が、手足ないんですよみんな、物乞いしてたんですよ。

1965年というのは実は、何の年かというと中国で文化大革命が始まった年ですね、文化大革命が毛沢東によって始まり、中国では数千万人が死にますね、餓死したりしているんですよ。

だから僕らが子どもの頃の中国というのは、栄養失調の国だったんですよ。みんな青白い顔してて、ばかばか死んでいって、非常に貧しい国だったんです、本当に。

1960年代の終わりから70年代の始めは、ベトナムでアメリカが枯れ葉剤撒いて空爆してた時代ですね。それからポルポトは1970年位から。国民の3分の1を虐殺したポルポト政権があった時代でしょ。

みんな忘れてますけど1980年代までは実は韓国は軍事政権で、言論報道の自由がないことがいかに不自由かということを韓国人達はいつも情報発信してたんです。

ベルリンの壁が壊れたのが1989年辺りですよね。ということはまだそんなに経って無いわけですよね。

僕が生まれた1965年、それからその20年前、東京も恐らく焼け野原で何もなかったでしょうし、大阪もそうですね。大阪も空爆にあいまして、うちの父親と爺ちゃんは子どもの頃の僕にこう言ったんですね。

アメリカからB29が飛んでくると、みんな空爆されるので橋の下に逃げこむんですよ。そこに逃げようと思ったんだけど、人で溢れてて近くまでいったけれど、入れなかったらしんですよ。

それで慌てて違う方向に走りだして、走っている最中に、後ろで爆弾の音がして振り返ると鉄橋ごと落とされて、人の死体だらけだった。

もし、父親が鉄橋の下に上手く逃げ込めてたら、今の僕はいないわけですよね。わずかその位の時間、わずか20年ですよ。

20年の時間のずれと、わずか飛行機で1時間の時空のズレ。この時空のずれだけで人の運命といういのは決まってしまう。

僕からしたら、それはもう偶然ですよね。僕は中学校の頃、そのことに気づいて、本当にありがたく思いましたね。

人生というのは気付きだから、それこそ無知の知で、気付きなんですよ。

人生は気付くことからしか始まらないので、そのことに気付けば申し訳無いと思うし、今の生き方をありがたいと思うんですね。

人間というのは、「ありがたい」という感情のまま置いておくと何も起こらないんですけど、悔しさでもありがたさでも何でもいいんですけど、その感情を次の行動に移し替えることができた時、初めて人生は変わっていきますよね。

医者になったきっかけ—それしか思いつかなかったから仕方なく

どのようにして感謝の気持ちとかありがたさを、或いは申し訳なさを形にできるか、というのが僕の10代のテーマだったんですね。

そしてそれが見つからないまま10代を過ごして、ある時、10代の終わりですけど、医者になろうと決心したんですよ。理由は、非常に簡単なんです。

僕は高校時代は文系だったし、全然勉強もしていなかったので、医者という選択肢は通常なかったんですけど、時代ですよね、時代。医者しか思いつきませんでしたね。

今はインターネットがあるじゃないですか。だからどこで誰が何をしているか全部調べたら分かるんですよ。

多分、今の僕ならば、今の自分で出来ることをしろ、と僕は言うと思うんです、何かをしたいという人にはね。

ですから、その時の僕が今インターネットがあって、どこで誰が何をしてるか分かってたら恐らく医者になってないんですよね。

それは一番最初に言った運命みたいなもんで、その時代を背負ってますから、色んな理由で不遇な人達のために何が出来るかを考えた時に、自分の中では一問一答のように医者しか思いつかなかったんです。

それで仕方なく、本当に仕方なくですよ、勉強したくないので、医者になったんですね。

自分との約束を守ることの大切さ

そして10年経ってミャンマーに行ったんですよ。今でも僕はずっと海外で医療を続けてるんですけど、「よく続きますね」とか「こういうこと、よくやりますね」とかよく言われるわけです。

今はたくさんの人がミャンマーに来ますから、色んな人と話をするとこう言われるんですけど、僕が今してることっていうのは、実は一言でいうと自分への約束を果たしてるだけなんです。

僕は20才の時に海外で医療をやりたいと思って、こういう人のためにやりたいと思って、30歳になった時に出来るじゃないですか。

でも人間は、色んな理由をつけて辞めちゃうんですよ。家族がいるとか、収入どうするとか、お金の問題あるでしょ、帰ったら就職ないでしょ、とか色々言われたんですよ。

僕らの時はね、医局が全盛の時代でした。ミャンマーに行ったらもう日本で働けないようにしてやる、と言われて辞めた医者も、腐る程いるわけですよ。

僕は最初から医局に入ってなかったから、そういうこと言われる筋合いなかったんですけど。30歳になってミャンマーで医療をできるようになった時に、みんなやめちゃうんですよね。ミャンマーで医療することを。そして誰もいなくなった、という状態だったんです。

だけど僕は30歳になった時、予定通りやったんですね。それは何故かというと、10代の頃の自分に約束したことを30歳の自分が果たしてる。単純にそれだけなんですよ。

何故かというと、20歳の時に僕が思ったことを30歳の自分が裏切れば、30歳になった時の自分の約束を40歳の自分が裏切る。40歳の約束を50歳の自分が裏切る。

そうやってきっと僕はもし自分を一度裏切れば、ずっと自分を裏切り続けて生きていくんだろうと思ったんです。だから取り敢えず自分との約束は果たそう、自分の過去との約束ですね、それを叶えようと思ったんですね。そして30歳になった時にミャンマーに行ったんですよ。

僕は、長くそうしてきて1つ言えるのは、自分との約束を裏切り続る人生というのは、恐らく自分のことが信用できなくなるわけですよ。だってずっと裏切るから。また50歳になった時に裏切るじゃないですか。

今 僕は50歳を過ぎてますけど、60歳になった時にまた裏切ると思うんですよ。だからそういう人間は、自分のこと信用出来なくなるじゃないですか。究極的なところ自分が信用できない人間の人生程不幸なことはないですから。

この最後の一線はそこで決まるわけで、そうすると結局自分を信用できない人間というのは、人のことなんか信用できませんよ。それはだって僕らは、自己の延長線上で他人を認識するようにしかできてないですから。

そうなると、自分を信用できない人間は他人を信用できないので、自分のことを信用できない人間は自分を大切にできない、本当の意味でね。自分を大切にできない人間は、人のことを大切にできない。

そうするといくら病気の人がいても、その人のことが心配、この患者のことが心配だという人間は、他人のことなんか大切にできなくなるんですよ。

だから、いかに自分の事を大切にする、自分の人生を大切にすることが尊いかっていうことだと思うんですね。

このことをみんな非常に軽く見てるところがあると僕は思っていて、もっと自分の人生を大切に、どうすることが自分の人生を大切にすることなのか、ということを考えなきゃいけないとは思いますよ、どうすることなのか。

でも大切なのは、1つは自分を裏切らないことだと、自分の過去を裏切らないこと。

自分との戦いは、一度でも降参したらダメ

人間というのは全力で取り組んで勝負に敗れる時は得るものがあると思うんですよ。

だけど自分との勝負で負けたら、次に復活するには本当にすごいエネルギーが必要だと思うんですよ。

強い相手がいて、打ちのめされて負けるのはいいんですよ、それは仕方ない。でも僕がやってきたことというのは常に自分と向き合ってきたんです。

自分と向き合ってその自分との戦いに負けたら、恐らく次は僕は負け癖がつくと思うんです。

もういいや、とかこの辺で辞めようとか、そうなったと思うんですよ。

そのことは常に意識してたことで、他人がいる戦いには負けてもいいけど、自分との戦いだけには一度も降参したらダメなんだって。

じゃないと絶対将来またやるという思いが常にあるんですよ。向かい合ってるのは常に自分だということだと思います。

だからどんなにしんどくても、自分のことだから歯を食いしばればいいって分かってますし、僕ら小さい頃から苦しみなんていつまでも続かない、いつかはいなくなるってことも分かってるし、だからしんどい時は身をかがめて歯を食いしばって、そしてチャンスが来たらもう一度頑張ろうと。

だけど絶対降参したらダメなんだっていうのは、自分との戦いにはありますね。

ミャンマーでのみっともないけど惨めではない生活

30歳になった時、100万円だけ握りしめて行ったんですよ。当時の軍事政権では、100万円は今の500万円位の価値がありましたから、当時の100万円はね、1995年の。ミャンマーは今、ミャンマーの通貨でいうと1ドル1,400チャットぐらいですよ。

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当時1ドル100チャットですから、この20年の1400%のインフレがかかっている。貨幣の価値は落ちていってますけどね。それでも1ドル1,400チャットですから、恐らく実質レートはすごいインフレがかかってるってことなんですよ。

すごい価値があったんです。ただ、銀行送金もできない。この100万がいつまでもつかわからない。

この状況の中で、この100万円を出来る限り長くもたせないといけないということで、節約しましたね。泊まってたゲストハウスを出て、ミャンマー人の家に間借りして、それこそ雨が多かったから雨で顔を洗ったりしましたよ。

それは、僕はこのお金が無くなったら全部終わりだったし、医療をするために来てるのに僕が生活するためにお金を使えないっていう想いがあったので、とにかくみっともなかったんですけど、惨めさはなかったですよ。それは目的がちゃんとあったからです。

そうやって医者になって行ってみたら、たった1人ですから、たった1人で政府との交渉もやったし、大使館も行ったし、色々やりましたよ。

僕は医者しかやったことなかったんで、何をどう交渉していいかも全く分からなかったんです。手探りだったんですね、1からだったんですよ、誰も教えてくれないし。

だけどやりました。目的があったから。このために今まで10年間頑張ってきたわけだから。

32万人の町に医者が1人という現実

それでミャンマー行ってみたら、ひどかったんです。これ今見てもらったらわかると思うんですけど、

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最初行った町が人口32万人の町だったんですけど、医者が1人しかいなかったんですよ。病院がたった2つしかなくて、1つはそのたった1人の医者がいるんですけど、もう1つは誰も医者がいなかったんですよ。看護師さんが1人だけいたんですね。それがこの病院・・・これ病院なんですよ。

向こうの方に白いポール見えますけど、あれベットの点滴台ですからね。床は土ですよ。本当に汚い土ですね。雨が降ればびしょびしょになるし、あちこち雨漏りするし。ここに2人か3人だけぽつりと患者達が入院してるんですよ。

患者がここへ来るのも大変だったんですよ。ここに来るのも、がたがたの道を牛車に乗って運ばれて、6時間、7時間炎天下を牛車に乗って運ばれてくるんですね。

ここは週1回僕は行ってたところですけど。みんな本当に貧しくて、アメリカを中心とする経済制裁にずっとあってましたからね。

同時ミャンマーは、メインの道路は、僕が戦後50年目に丁度行ってますから、その50年前のイギリス統治時代にひかれたアスファルトの道路で、穴ぼこだらけで、それも人力で塞ぎながら、修理しながら使ってました。メインの道路を外れると、全ての道路は、ほぼ土だったんですね。

そういう状態で、とにかく現金収入が非常に少ない状態。医療は全額自己負担ですから、点滴の針1つ、消毒の綿1つから自分で買わないといけない、という状態だったんですね。

そのような状態だったので、医療はまともに展開されてなかったんですね。薬も中国製の薬、インド製の薬、それは酷いものですよね、20年前の中国の薬なんて想像出来ると思うんですけど、それはもう効かないような物が多くて、でもそれしか手に入らないから。

あとタイ製とか日本製とかヨーロッパ製の薬も僅かにありましたけど、本当に高い薬だったので、通常のミャンマー人達は飲めなかったでしょうね。そういう状態の中、医療を始めることになったんですね。

医療活動を始めたら、患者がいっぱい来るじゃないですか。患者がいっぱい来て、朝から晩まで診ないといけないんですね。

まさに床みたいなところで座ってやってました。朝五時から診察しないといけないんです、患者が多すぎて。今でも覚えてますけど、朝五時ぐらいに起きてカーテンを開けると、空はまだ明けてないんですよ。でも黒山の人だかりなんですよ。

僕のところに来たら無料で治療を受けられる、だから借金してでも来るわけですよ。来た人達は、近くの農家に間借りして住んだり、お寺に住んだり、(日本の駅と違って)吹きさらしの駅の屋根の下に寝泊まりしたりして治療に通ってましたね。

そうやって朝から人だかりで、朝の9時ぐらいまで診るわけですよ、その人達を一生懸命、消毒したりね。9時位になると村に巡回に出かけていくわけですね。その後夕方帰ってくると、また人だかりなんですよ。すごい人が家の前で待ってるんですよ、玄関の前で。

玄関開けて、また治療、診察するでしょ、夜の12時まで毎日ですね。夜の12時まで毎日やりましたね。

(続)

編集チーム:小林 雅/城山 ゆかり

続きはこちらをご覧ください:10年かけてでも、心臓病に苦しむミャンマーの子どもたちを救いたい(ジャパンハート吉岡秀人)

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