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10年かけてでも、心臓病に苦しむミャンマーの子どもたちを救いたい(ジャパンハート吉岡秀人)

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「この子も心臓病なんですね。とにかく今まで本当に見捨ててきたんですよ。100人に1人っていうことは、100人子どもが来たら1人が心臓病じゃないですか。こういう子たちが100人に1人、極端な話し、いるわけですよ。
心臓病の子を僕は今まで、言ったら自分の中から切り捨ててきたんですね、どうしようもないから自分の力では。だけど、もうなんとかしようと思ったんです。」と語るジャパンハート吉岡秀人の人生の(その2)をご覧ください。

カンボジア病院建設プロジェクトも合わせて是非ご覧ください。
リンク:http://irodorucambodia.org/

2016年3月14日開催
 ICC SALON「ジャパンハートのこれまでとこれからの取り組み」

(スピーカー)
 特定非営利活動法人ジャパンハート代表 吉岡秀人 氏

Part 1はこちらをご覧ください:ミャンマーでの医療活動は自分との約束を守るため(ジャパンハート吉岡秀人の人生)

自分のやっていることは間違っていないと患者の数が教えてくれた

上手くいかない子もいて、例えばある子は丁度この病院があるところに行った時ですけど、 牛車で運ばれて来ましてね、村で伝統的な薬を使ってたんだけど治らないって。

「全身に穴があいて、膿が吹き出してるわけですよ。元々のきっかけは人間違いでお腹刺されて、その手術の後から、お腹はそれで治ったらしいんですけど、その後から全身から膿が吹いてきて、伝統のお薬では治らない。」

っていって運ばれてきて、ここの病院看護師さん1人いますから、薬だけ1週間分渡して、また次1週間来るまで見てください。で、1週間、2週間、3週間ってやってた時に、僕は3週間目また薬渡して帰ろうとすると、小さなお父さんだったんですけど、親父がおっかけてくるんですよ、僕を「先生ちょっと待って下さい」。

追っかけてきてこう言うんですね。「そろそろ村に帰ろうと思います」と言うんですよ。要は治療費だけじゃないんですよね、食べないといけないとか、村で農家の人達ですから、父親が抜けると作物を作れないじゃないですか。

だから家族の生活にも影響するんですよ。そんなとこまで僕も当時思い及ばないので、とにかく治療費だけ負担してたらいいだろうと思ってやってたんですけど、ご飯食べるのだってお金結構かかるんですよね。

だから、その時に彼が言ったのは、「村でお金みんな貸してくれたんだけど、これでお金無くなったから村に帰ります」と言ったんですよ。

ちょっと良くなりかけてきて、ですよね。僕はその時に、どうしようかなと思ったんですよ。

その時 僕は、「仕方ないな」とも思ったんですけど、自分の家に連れて帰ったんです。ご飯の面倒もみるし、治療費もタダにするし、ていうことで、ずっと面倒みて注射を続けたんですね。

でも最後、死にましたね。今から思うと、AIDSだったんですね、きっと。輸血されてAIDSがうつったんですね。途中で薬が全く効かなくなって、どんどん悪化して、最後死んでいきました。

当時は、ミャンマー国内で検査ができなかったんですよ。レントゲン撮ると変な肺炎ですね、薬が全然効かない得体のしれない肺炎がいっぱいあって、それで人がどんどん死んでいくとか。

今でこそ検査できますし、薬も貰えますけど、当時はそんなことあり得なかったので。とにかくミャンマー自体が「AIDSはありません」というスタンスを政府が決め込んでいた時代なので、検査すら一般にやられてなかったんですね。そんな時代だったので、その子はそのまま亡くなっていきました。

「そんな1人1人ちまちま治療したってきりないよ」「そんな1人の患者に金かけてどうすんの」みたいなことを当時からよく僕は言われてたんですよ。

僕はいろいろ言われましたど医療活動を続けてたんですよ。何故かというと僕は臨床の医者だから、メディカルの医者なんですよね。ヘルスではないんです。

自分の子どもが癌になったり、自分の子どもが交通事故にあったり、自分の子どもが熱が高くなってヒーヒー言ってる時に、恐らくその人は、未来のどんな仲間たちのことよりも、今目の前にいる自分の子どものことを救いたいと思う、その気持が僕よく分かるんですよ。

ある人がこう言ったんですね。例えば日本から心臓移植にアメリカに行く子どもいますね。治療費は1人1億円じゃないですか。肝移植だけで数千万円でしょ。

ある海外で医療活動をしている先生がこう言ったんですね。その時その海外の地域ではね、マラリアが大勃発してて、子どもたちがばかばか死ぬわけですよ。

あんなことに大金使うんだったら、例えばこっちに三千万円の医療費を回してくれたら、1人1万円で3,000人助かると。1億円だったら1万人助かると。だから僕はああいうのは認めてないんだ、と言った人がいるんですよね。

だけど僕はそうは思わないんですよ。今でも思わないですね。

今でもこうやってる間にいっぱい人が死んでるわけじゃないじゃないですか。苦しんでる人もいっぱいいるんですけど。

でも大切なのは、だからといってじゃあみんなが、今自分が食べてるご飯を諦めてお金出すか。誰もそんなことしないんですね。

ほとんどの人はしてないじゃないですか。今日もまた昨日と同じ1日を過ごすし、今でも爆撃されて死んでる子ども達がいても、そのことに対して誰も行動してないじゃないですか。

僕は思うんですけど、それはいけないとは思う。でも仕方ないと思うんですね。

要するに自分にとってどれほど大切か、自分にとってその子どもたちがどれほど価値があるのか、ということが実は大切なんじゃないか。

例えば僕の子どもが心臓悪くて、例えばそれに一億円かかったとしても、その子どもは僕しか頼る人がいないんですね。

誰も、親以外の誰も1億円なんか集めてくれないじゃないですか。だから、僕はそれも正しい事だと思うんですね、何が正しい、何が間違ってるじゃないと思うんです。

だからそうやって人それぞれに大切なものが違うように、色んな価値観を認めていいんだろうと思うんです。

そしてその時 僕の価値観は、例えば10年、20年後のことではなくて、今まさに困ってる人達を助けるのが臨床の医師の役目でだと思うんです。僕も悩んだんですよ。悩んで、悩みながらやり続けたんですよ。

でもある朝、ある時ですよ、ふと気付いたんですよ。それは何かというと、例えばビジネスやっていたら、自分がやってることがいいかどうか、マーケットに聞け、というじゃないですか。

僕にとってのマーケットは何かっていうと、患者なんですよ。僕はもしやってることが間違っていなければ、患者はどんどん増えてくる。

もし僕がやってることが間違ってたら、患者は僕の前から消えていくだろうと思ってたんです。

そしてある朝、ぱっと窓を開けたら人だらけなんですよ。その数は減ることが無くて、僕のやってることはこれでいいんだ、と思ったんです。それで続けてきたんですよ。

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写真のように村での簡単な手術は村のこういう所でやってきましたね。僕は外国人で、向こうの政府の病院ではやれないんですね。特別許可を貰わないとやれないもんですから、村に行って村の政府の診療所を使いながらやってたんですよね。

貧困層の子ども達に医療を届けるために僕は存在している

ずっと治療していると、色んな人達が現れはじめるんですね。

そのうちこういう子どもが親に連れられて現れてくるんですね。これは東南アジアの風土病なんですけど、頭蓋骨に穴が開いて脳が飛び出してくる脳瘤という病気なんです。

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火傷の子ども、大火傷している子ども。

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今みたいな子どもたちが僕の前にどんどん現れて、手術してください、とお願いされるわけです。だけど手術する場所もなかったので断って帰すんですけど、だけど最後の希望だから、みんな来る時に借金しているんですよ。

来るんですけど、どうしようもなかったんですね。僕は特に貧困層の人達に医療を届けることに僕の存在意義があるわけですね。

当時、ミャンマーの一部の金持ちの人はプライベートの病院に行って治療を受け、その次に金持ちの人達は政府の病院に行く、そして治療を受ける。

あまりお金ないんだけど何とか工面できた人はやっぱり政府の病院に行く。だけど治療を受けられないから、ベットに寝かされてそのまま死んでいく。

でも、ほんとの貧乏人達は村でそのまま死んでいくだけなんですよ。

僕のところに来る、この子たちは本当に貧困層の子なんですよ。元々は村でそのまま死んでいくような子ども達ですね。

この子ども達に医療を届けるために僕は存在しているわけで、この子たちにどうしたら医療を届けられるか、というふうに思ったんですね。

現地のスタッフ達はみんな、「あの子どもたちは一生あのままですよ」と僕に言うもんですから、「お金ないし貧乏だからそのままですよ」と言うもんだから、僕も決断しまして、家を大改造してまして、家の部屋に1つ手術室を作ったんですよ。

2 スライド02

向こうの大工さんに木の手術用のベットを作らせたり、勿論器具は1つずつ買い集めましたよ。

今で言うとろくな器具はないですよ、パキスタンとかインド製の硬い使いにくい切れないようなハサミとか色々揃えてやりました。1996年から始めたんですけど、そうやってこういう子ども達を手術しました。

たった1人で手術を開始

麻酔器もないでしょ。だからどうやったかっていうと、こういう子も全て血管に静脈麻酔を打つんですよ。局所麻酔と静脈麻酔ですね。

局所麻酔というのははあんまり打ち過ぎると中毒になるので、ある一定の量しか打てない。静脈麻酔は打ち過ぎると呼吸が止まって痙攣起こしたりする。
だから、1回の手術に使える量っていうのは非常に限られているんですよね。で、僕1人しかいないでしょ。どうしたかというと、手術はなかなか1人でできないんで、事務の女の子にグローブはめて引っ張っといてくれ、とかそうやってやったんです。

わずか2、30分でほとんどの手術を終わらせないといけないんですよ。じゃないと麻酔が覚めてくるし、麻酔効かない子も中にいて、これ以上いったら絶対呼吸止まるっていう場合は、薬の量を極力最小限にしながら持続するんですけど、打ってもらうんですけど、そうすると効きが悪いので痛みはともかくとして、意識が浅くなってくると暴れるんですよね。

それをみんなで抑えてもらって、身体に手術を繰り返して。だから、最初の頃はたった一人で1,000人とか1,500人の手術をしましたね。

1年間で1,000人ぐらいだったと思います。どんなに長くても1時間以内で終わらせないと、それ以上続けられないので。

そうやって、たった1人だったんですけどやったんですよね。

長くやってきて実は、僕は大きな2つの子ども達を結果的に見捨てることになったんですよ。

出来る限りやりました、だって最後の砦だと思ってくれてましたらかね。出来る限り彼等の期待に応えたいと思ったし、無いものは無いなりにやり続けたし、やったんですね。

だけど、2つだけどうしても出来ないことがあったんですよ。それは、まず僕は手術はしますけど、心臓の手術はしないんですね。

実は心臓病の子どもって100人に1人産まれてくるんですね。これは日本も変わらない。恐らく日本と同じ位の子どもの数は産まれてますから、そうすると100万人産まれてるとして、1万人心臓病なんですよ。

1万人心臓病で、赤ちゃんの心臓病って、生まれつきの心臓病という形の異常なので、形を直さない限り死んでいくわけですね。

形を直すっていうのは、基本的には手術をして直すんですけど、ところがミャンマーにはたった1人の子どもの心臓外科医もいないんですよ。

ということは、心臓病の患者はほぼ全滅してるっていうことなんですね。どんどん連れてこられるんです、僕のところに。どうしようもないですね、麻酔もろくな物もないし。

それで家に帰すしかないですね。だから、心臓が悪いって分かった時点で、「もうあとあまり長くないんで、村に帰ってこの子どもを大切に見守ってください」と言って家に帰すのがミャンマー人の医者の常ですね。かつての日本の姿ですよね。そういう子ども達をなんとかしたいと思って、

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この子も心臓病なんですね。とにかく今まで本当に見捨ててきたんですよ。100人に1人っていうことは、100人子どもが来たら1人が心臓病じゃないですか。

僕が子どもの頃、小学校の頃も同じだったんですよ。僕のいとこ(父親の妹の子ども)が心臓病になりましてね、大阪の病院で死んでいったんですけど、当時の日本は、もう40数年前ですけど、あんまり難しい手術はできなかったんですね。

だから最期は酸素テントに入れられて。でも酸素テントに入れられたって死ぬわけですよ、治療してないから、出来ないから。子どもが最後1人死んでいくところ見たら、それはもうね、人生観変わりますね。

10年かけてでも、心臓病をなんとかしたい

こういう子たちが100人に1人、極端な話し、いるわけですよ。心臓病の子を僕は今まで、言ったら自分の中から切り捨ててきたんですね、どうしようもないから自分の力では。

だけど、もうなんとかしようと思ったんです。何故かと言うと、アジアは少しずつ経済発展して、もう昔みたいに下痢とか肺炎とかで死ぬ子がものすごいいるかといったら、昔みたいな割合じゃないんですよ。

何故かというと、どこいっても点滴はあるし、抗生物質も買えるんですよ。だから昔みたいに薬が手に入らないわけじゃないし、昔みたいにばかばか死んでるわけでもないんですね。

そういう時代だからこそ、今はもう少し進んだ、というかもう少し難しい病気を対応する時期にきたんじゃないかと思ったんですね。

これはもう、20年間僕はずっとやってきてその流れを見てきたので、もうその時期にきてると思ったんですね。

それで、心臓病の子どもをどうするかっていうことで、僕は本当に政府に直談判しに行きましたしね、日本の心臓外科医の医者達に1人ずつ会って、これをとにかく10年がかりでもいいから何とかしないといけない。

これも、誰もやらないと1日遅れるわけじゃないですか。年間1万人産まれるとして、1日遅れたら30人ですよ、それこそ。1日早くその仕組が出来上がれば、30人助かるでしょ。3日遅れれば100人死んでいく。

だから1日でも早く始めようと思ったんですよ。みんなが僕の上を踏んで行ってくれたら尚いいですね。誰かがやろうって言わないと始まらないから、それで僕は自分がやろうと思ったんです。

それでやり始めたんです。日本政府と話もしたし、色んな医者にも話しをしにいって、やり始めたんですね。僕は心臓の手術できないからどうしようもないんですけど、でも結局最終的にどうなったかというと、実はその過程で、産経新聞と話しが繋がったんです。産経新聞には心臓病の子ども用の基金がありまして、日本も当時保険がなかったんですよ。

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だからこういう基金を募って手術をしたんですけど、今は保険で全部カバーされますから、日本で今必要があるとすれば、心臓移植しかないわけです。
ということは、既に日本の中では基金の意義がだいぶ低くなってるんですね。だから今海外の子ども達を連れて来て、もともと心臓病の基金なので手術をしようとなったんです。

この基金の繋がりから東京女子医大(小児心臓の循環器内科は特に有名で、日本のトップレベル)と大阪にある国立循環器病センターの心臓外科医の先生達と繋がりまして、彼等とジャパンハートと一緒にやることになりました。

そしてその費用は産経新聞社の基金が負担するという形で整いました。

去年のことですが最初のチームがミャンマーに向かいました。ミャンマーからもこれからどんどん医療者を日本に呼んでトレーニングをすると。そして、こっちからも医療者がミャンマーに行って手術をするというふうに整いました。

さらにミャンマー政府と話をして、ミャンマー政府が子どもの心臓病センタ-を作ります、という話しになって動き出したんですよね。
1つだけ実はこの時に、東京女子医大と国立循環器病センターに要求したことがありまして、それは何かというと、無いところにあるものを作ると時間がかかるじゃないですか、2年とかじゃできないわけですよ。

それで僕が要求したことはたった1つですね、10年一緒にやってくれますか、という話です。僕は10年かかると思ってるからですね。10年もし一緒にやってくれないんだったら別々にやりたい、と言ったんです。積み上げてやった方が形になるから。

そしたら東京女子医大も国立循環器病センターも10年やりますよ、と言ってきたんです。それで一緒にやることになったんですね。これで僕は、とにかく1つ出来ていなかった心臓病に関しては少し走りだしたんですね。

(続)

編集チーム:小林 雅/城山 ゆかり

続きはこちらをご覧ください:虫の息になって死んでいく小さい子供たちを救いたい(ジャパンハート吉岡秀人)

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