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1. 若き経営者たちを触発!「無償で医療を届ける」ジャパンハート吉岡さんの活動

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ICC KYOTO 2025のセッション「ジャパンハート吉岡秀人 特別講演 「人のために生きることは、自分のために生きること」- これからの生き方を考えよう 」、全6回の①は、CHEERS白井 智子さんとファクトリエ山田 敏夫さんのモデレートにより、吉岡さんが活動を紹介。1995年に戦争や貧困で医療を受けられない人々のために国際医療NGOを設立以来、現在も支援を続けています。ぜひご覧ください!

ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に学び合い、交流します。次回ICCサミット FUKUOKA 2026は、2026年3月2日〜 3月5日 福岡市での開催を予定しております。参加登録は公式ページをご覧ください。

本セッションのオフィシャルサポーターは EVeM です。


【登壇者情報】
2025年9月1〜4日開催
ICC KYOTO 2025
Session 4B
ジャパンハート吉岡秀人 特別講演 「人のために生きることは、自分のために生きること」- これからの生き方を考えよう
Supported by EVeM

(スピーカー)
吉岡 秀人
特定非営利活動法人ジャパンハート最高顧問/ファウンダー/小児外科医

(モデレーター)
白井 智子
CHEERS
代表取締役

山田 敏夫
ファクトリエ
代表

(リングサイド席)
上田 誠一郎
インターナショナルシューズ
専務取締役

岡本 拓也
LivEQuality大家さん
代表取締役社長

尾田 洋平
一般財団法人 地域・教育魅力化プラットフォーム
専務理事

鬼丸 昌也
認定NPO法人テラ・ルネッサンス
創設者

金谷 智
LX DESIGN
代表取締役社長

亀石 倫子
一般社団法人LEDGE
代表理事

川口 加奈
認定NPO法人 Homedoor
理事長

小嶌 不二夫
ピリカ
代表取締役

園田 正樹
グッドバトン
代表取締役

田口 一成
ボーダレス・ジャパン
代表取締役社長

冨田 啓輔
HelloWorld
代表取締役Co-CEO

中川 悠樹
特定非営利活動法人AYA
代表理事

野口 昌克
SMILE CURVE
代表取締役

廣瀬 智之
Tomoshi Bito
代表取締役社長

福寿 満希
ローランズ
代表取締役

松本 友理
Halu
代表取締役

三浦 美樹
一般社団法人日本承継寄付協会
代表理事

『ジャパンハート吉岡秀人 特別講演 「人のために生きることは、自分のために生きること」- これからの生き方を考えよう』の配信済み記事一覧


山田 敏夫さん(以下、山田) 皆さん、こんにちは。

今日はジャパンハートの吉岡 秀人先生に、「人のために生きることは、自分のために生きること」というお話をしていただきます。

私が吉岡先生に初めてお会いしたのは、10年ほど前です。


山田 敏夫
ファクトリエ
代表

1982年熊本生まれ。1917年創業の老舗婦人服店の息子として、日本製の上質で豊かな色合いのメイドインジャパン製品に囲まれて育つ。大学在学中、フランスへ留学しグッチ・パリ店で勤務。2012年1月、ライフスタイルアクセント株式会社を設立し、同年10月に「ファクトリエ」をスタート。年間に訪れるものづくりの現場を100を超える。

そこから、吉岡先生のいらっしゃるカンボジア、ミャンマーにもお邪魔して一緒にお食事をしたり、過ごしたりする中で、一言一言がとても心に刺さるお話をたくさんしていただきました。

会場の皆さんも、吉岡先生のお話をお聴きになって、何か少しでも人生につながる糧にしていただけたらと思います。

よろしくお願いします。

白井 智子さん(以下、白井) 本日モデレーターを務めさせていただきますCHEERSの白井と申します。


白井 智子
CHEERS
代表取締役

幼少期に難治性の疾患を経験。長期療養の経験や自身の出産をきっかけに、2016年から「子どもたちの挑戦や体験機会を公平にしたい」と、東京都渋谷区にて保育事業をはじめる。その後2022年に、CHEERS株式会社を設立。これまでに480社を超える企業や30ヶ所を超える自治体と協力し、累計42,000人の親子に無償で教育や体験の機会を届けている。

吉岡先生と出会ってから、まだ2年、3年といったところです。

個人的なことではありますが、私は子どもの頃に免疫疾患の難病にかかっていて、3年ほど病院を出たり入ったりする生活を送り、そのような中で色々なことを感じてきました。

私は15歳になるまで、大人にはなれないと言われていましたが、奇跡的に元気に過ごさせていただいています。

吉岡先生には、本当に色々な言葉を頂きました。

今日は皆さんからも、色々なご質問やお話を伺えたらと思っております。

では吉岡先生、お願いします。

▶︎ジャパンハート 吉岡秀人さんの記事一覧

▶︎編集注:会場で投影された一部スライドや動画は、著作権の関係と患者さまのプライバシーを考慮し、非公開にしています。ご了承ください。

“心が救われる医療”を目指す吉岡 秀人医師

吉岡 秀人さん(以下、吉岡) よろしくお願いします。


吉岡 秀人
特定非営利活動法人ジャパンハート最高顧問/ファウンダー/小児外科医

特定非営利活動法人ジャパンハート(国際医療NGO)最高顧問/ファウンダー/小児外科医。1965年生まれ、大阪府吹田市出身。大分医科大学(現 大分大学医学部)卒業後、大阪・神奈川の救急病院等で勤務。1995年、単身ミャンマーへ渡り医療支援活動を開始。その後一時帰国し、2004年に国際医療ボランティア団体「ジャパンハート」を設立(2008年法人格取得/2011年より認定NPO法人)。日本人6名と現地スタッフ数名でミャンマーで活動し、その後は徐々に協力者を増やしていきながら日本国内・カンボジア・ラオスに拠点を拡大。現在も開発途上国の医療現場の前線で活動を続けている。MBS「情熱大陸」には4度出演。2021年「第69回菊池寛賞」受賞。

今年(2025年)の3月にミャンマーで大地震があって、死にかけました。

隣の病院が崩れ落ちて、僕はその隣にいたものですから運良く助かりました。

【ミャンマー地震】大地震から半年 苦難が続く中でも、復興に向けて少しずつ前に(ジャパンハート)

そういうことも運命だなと思いながら、今年60歳になりまして、海外で医療を始めて丸三十年目です。

僕が医者を目指してからは40年ですが、今日はその歴史を少し、子どもたちの話とともに聴いてもらえたらと思います。

10年以上前の、2009年から2011年にかけて、『情熱大陸』という番組に毎年取り上げられたのですが、それを5〜6分にまとめた映像を用意しました。

今でも同じ場所で働いていますので、イメージを持っていただくために、まず映像を見ていただいて、その後、僕の話に戻りたいと思います。

▶︎編集注:ここで、ミャンマーで最後の希望を託して吉岡さんの元に訪れる親子の様子や、手術の様子などを紹介する映像が上映されました。

吉岡 ありがとうございます。

今もずっとこんな感じで現地に行っていて、年間8カ月、海外で医療をし続けています。

戦争で傷ついた人たちを見て育った子ども時代

吉岡 僕がなぜ医者になったか、お話ししますね。

生まれたのは戦争が終わってからまだ20年、1970年に開催された大阪万博の前で、万博の太陽の塔がある町の生まれです。

その頃は非常に貧しい時代で、戦争で手足を失った傷痍軍人が、まだ町にうろうろしているような中で育ちました。

万博で世界中からたくさんの人がやって来ている時に、まだ戦争を引きずって手足がない人たちが生きていたのです。

1960~1970年代は、韓国は軍事政権で軍服姿の大統領でしたし、中国では文化大革命で大量の死者が出て、ベトナムではベトナム戦争でアメリカ軍が枯葉剤を撒いて、カンボジアではポル・ポト政権による大量虐殺が行われました。

この時代に僕は生まれ育って大きくなったので、こういう人たちのために何かしないと申し訳ないなと思うようになったのですね。

僕の中では、なぜかそれが目の前の傷ついた日本人たちとつながりました。

日本では、僕が医者をやらなくても、僕の代わりはたくさんいるでしょう?

けれども、僕がいなければ医療を受けられない人たちはこの世界の中にはいて、絶対的に不足している地域があるのです。

そういう人のために、何かしたいなと思いました。

今から思えばそれは、この世に生まれて、自分が最高に意義がある場所、そして最も自分が役に立ったと納得できる場所に僕は立ちたかった、そういうことだったと思うのですね。

それで、医者になることを目指しました。

僕は文系でしたし、全然勉強をしていなかったのですが、10代の終わりのある日突然、医者になるしかないと思い立ち、そこから勉強して浪人して、なんとか大学の医学部に入りました。

貧しい人々へ医療を届けるためにミャンマーへ

吉岡 最初に行ったのは、1995年のミャンマーです。

戦争の時に、日本人がたくさん行って、20万人近く亡くなった地です。

最初に僕がやりたかったことは、「貧しい人たちに医療を届ける」ということでした。

これが、僕が最初に目指したことです。

この頃の僕の中では、貧しくて医療を受けられない人たちというのは、僕の目の前にいた傷ついた人たちや、昔の日本人でした。

僕が生まれる数年前に、日本でようやく国民皆保険制度が成立(1961年)していますから、それまではお金がないと医療を受けられなかったので、僕の親の時代は、貧しい人は死んでいきました。

お金がない人たちにとっては、医者は死ぬ直前にかかるものだったのですね。

ですから、紛争でも戦争でも災害でもよかったのかもしれないですが、こういう人たちのために医療をしたいと思い立って、ミャンマーに降り立ちました。

たまたま、そこにご縁があったということです。

(続)

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編集チーム:小林 雅/浅郷 浩子/小林 弘美/戸田 秀成

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