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「大人の教養シリーズ『読書』〜ビジネスパーソンこそ本を読め!(シーズン2 )」全9回シリーズ(その5)は、ここからが本編。ホストのTakram渡邉 康太郎さんから、一人ずつ読書のポイントや1冊を挙げて紹介していきます。「本を読んだ」とは何かという問いかけに始まり、「共著」という渡邉さんが紹介する概念から紹介された本は思わぬ作品です。ぜひご覧ください!
ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。毎回200名以上が登壇し、総勢800名以上が参加する。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に議論し、学び合うエクストリーム・カンファレンスです。次回ICCサミット FUKUOKA 2021は、2021年2月15日〜2月18日 福岡市での開催を予定しております。参加登録は公式ページをご覧ください。
ICCサミット KYOTO 2020のプレミアム・スポンサーとして、Lexus International Co.様に本セッションをサポート頂きました。
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【登壇者情報】
2020年9月1〜3日開催
ICCサミット KYOTO 2020
大人の教養シリーズ「読書」〜ビジネスパーソンこそ本を読め!(シーズン2 / 90分拡大版)
Supported by Lexus International Co.
(スピーカー)
嶋 浩一郎
株式会社博報堂 執行役員/株式会社博報堂ケトル エグゼクティブクリエイティブディレクター
渡邉 康太郎
Takram コンテクストデザイナー / 慶應義塾大学SFC特別招聘教授
(ゲスト)
川上(全龍)隆史
宗教法人 春光院
副住職
琴坂 将広
慶應義塾大学
准教授(SFC・総合政策)
高田 修太
一般社団法人HLAB/株式会社エイチラボ
共同創設者COO / プロマジシャン
丸 幸弘
株式会社リバネス
代表取締役 グループCEO
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▶大人の教養シリーズ「読書」〜ビジネスパーソンこそ本を読め!(シーズン2)の配信済み記事一覧
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最初の記事
ビジネスパーソンにとっての読書とは? シーズン2も本を語り尽くす!
1つ前の記事
研究者の読書とは、知識の行間やクエスチョンを見つける旅である
本編
渡邉 今日ご紹介する本は、実は何年か前に読んだ本です。
(一同笑)
よろしいですか。僕は今日、この本について堂々と語りたいと思います。
琴坂 読んでいないですよね?
嶋 本当に読んでいる?
丸 読んでない。
(一同笑)
「本を読んだ」とはどういうことなのか
Takram コンテクストデザイナー / 慶應義塾大学SFC特別招聘教授 渡邉 康太郎さん
渡邉 みなさん、ちょっと聞いてください(笑)! これから僕が語ろうとしているんですから。
「堂々と語る方法」と書いてあるけど、この本は実はハウツー本ではないんです。
それどころか、読んでみると極論ばかり言っている。本を読まなくてもいいという話が、延々と書かれているんです。
参照している本といえば、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』などなど。硬派に展開します。
他にも、とあるネイティブアメリカンの集落で、シェイクスピアの『ハムレット』について議論しようとしても、全く話がはかどらない理由とか、結構真面目な本やエピソードをきっかけに、本を読まなくていいという主張がなされます。
1番大事な箇所のネタバレになってしまいますが、「読まなくていい」や「読んだ方がいい」と言うとき、そもそも「読む」とは何なのかという問いがある。
あらゆる本が、実は、「読んだ」と「読んでいない」の間にある、という話です。
バイヤールさんはパリ第8大学の教授で、精神分析医でもありますが、この本の脚注には彼が読んできたいろいろな本が参照されています。
そしてそれらの本の全てに、「未」「流」「聞」「忘」というマーキングがしてある。例えば「未」だと「未読」という意味です。
実はバイヤールさん自身が未読なことを、自ら公開していく。これが結構、面白くて。
『薔薇の名前』をすごく偉そうに語って引用しているけれど、「流」。「流し読み」なんですよね。
面白いのが、では最初から最後まで読んだら、本当に「読んだ」と言えるのか?きちんと理解していたら読んだといえるのか?
でも、そもそも「きちんとした理解」とは何なのか?
バイヤールは、著者と同じ思考をすることなんてそもそもできないんだから、「きちんと読む」という行為自体が存在しないと言います。
「正確に読む」ことから離れようという意味で、多分「読むな」と言っているんです。「正確」を信じるなという。
琴坂 今、ちょうど買いました。アマゾンにあと15冊あります。
渡邉 (笑)アマゾンにはもう15冊しかないんですね。
嶋 「相手の言うことを完コピして理解するなんて、そもそも不可能なのである」という前提の話ですね。
渡邉 スライドの下の方を見ていただきたいのですが、すごく面白いのが、彼は「未読」「流し読み」「人から聞いただけ」「読んだけど忘れた」という4つのマーキングしかしていないのです。
つまり、「完読」や「精読」がない。
「全部読んだものも忘れているんだ」という諦めが前提なのが面白いですね。
丸 論文では必ず引用をします。そして僕たちも、「読んだけれど忘れた」や、「これとこれの間にあるから多分こうだろう」ということで実は読んでいないものもあります。
加えて、自分の成長と共に、忘れてしまってもいいものが出てきたり、もう1回読んだら違う捉え方ができたり、恐らく永遠に読み切ることがないであろう本が、僕は良書だと思います。
そういう意味では、「読んだ」がどのような意味のものなのかはすごく面白いテーマだと思います。
渡邉 「読んだ」とはなんぞや?というテーマですね。
嶋 元ヤフーの井上さんはジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を30回読んだけれど、全部5ページ目までしか読めなかったそうです。それも「読んだ」ですよね。
渡邉 はい、読んでいますね。しかも何回も読んでいます。大事に読んでいるのだと思いますよ。
川上 あの本が和訳(柳瀬 尚紀訳)されている時点ですごいですよね。
原文で挑戦したことがありますが、意味をなさないんですよね。
嶋 解釈が分からないから、それだけで“ジョイス・インダストリー”という産業が成り立つくらいの作家です。
渡邉 研究者だけで産業ができるというやつですね。
読者が本の意味を与えるから、読者も共著者である(Takram渡邉さん)
渡邉 彼が提唱する色々な概念の中に、「共有図書館」というものがあります。
▶「共有図書館」についての解説と評論。
「完全な読書」が消える未来?/佐藤 卓己 【特集:新・読書論】(三田評論ONLINE)
すごく簡単に説明すると、これは「間テクスト性」(※)と、接続するような概念で、本と本がお互いにどういう関係にあるかということです。
▶編集注:間テクスト性(intertextuality)は、いかなるテクストも独立して存在しているのではなく、他のテクストとの関連のもとに存在しているという概念。フランスの文学理論家・著述家のジュリア・クリステヴァが提唱。
つまり、1冊の本に没入するのではなく、ちょっと引いたときに、何の本と隣り合っているかという関係性です。
「1冊の本に集中して没入していくことは、他の本を読む機会を逸することなので、読むな」とも言ってのける。
「内なる書物、内なる図書館」とは何かというと、その読書の体験を通して、自分自身がどれだけの情報を受容したのか、していないのか。そして本という他者の言葉をきっかけに、自らをいかに語り、書き、更新するのかということ。“自分の中の図書館”や“自分の中の書物”の蓄積性や更新性です。
先ほど琴坂さんがおっしゃっていたことに繋がる概念ですね。
この辺から僕なりの考えを述べると、本の中身を書くのは筆者の仕事ですが、本の意味を与えるのは読者の仕事で、読者は共著者である。本は演奏を待つ楽譜であって、読者が演奏することで初めてそこに現れる。
これは、読者と著者のインタープレイを楽しむということです。
嶋 書き手と読み手がすれ違うけれどそこに市場ができるといった面白い現象が起きる。
映像にはない、本の特性
琴坂 「読んだ、読まない」という議論を聞いていて思ったのですが、僕、読んでいる時に実は読んでいないんですよ。
完全に没入しているので、文字ではなくて、完全にビジュアルになっているのです。
本当に中に入っている感じがするのですが、皆さんもそんな感じですか?
丸 特に専門書を読んでいる時には、脳に独自の絵が出ますよね。
琴坂 出ますよね。
渡邉 ビジュアルが浮かぶんですか?
丸 はい。生命科学の本を読んでいる時には、体の中が全部見えています。
皆さんの体の中が全部見えていますから、それくらい怪しい状態になります。
琴坂 なりますよね。それって実は、表現技法としての本の特性だと思います。
例えば、映画などは強烈なビジュアルで、作者の世界観をぶつけてきますよね。
漫画は、音や動きが表現されていないので、そこを我々が想像しているわけです。本を読むときには、活字を鍵に、自分がそのほかの世界観を補完して、創造しているわけです。
この人の顔や声、表情、匂い、風景を、私やあなたが作っているということなのです。
ですから、同じ本を読んでいても、あなたの見ている世界観と僕の世界観は恐らく違うはずです。そういうことなのではないかな?と思います。
一般社団法人HLAB/株式会社エイチラボ 共同創設者COO / プロマジシャン 高田 修太さん
高田 後で少しお話しますが、私はマジックをずっとやっていて、マジックのオタクで専門書をたくさん読んでいるんです。
最近では、マジックのやり方をDVDやユーチューブで学ぶ人も増えています。
それで、友達同士で集まると、同じ本で指の動かし方などを学んでいるのに「お前の方がなぜか不思議に見える」とか、「どうしてお前の方がいいマジックになっているの?」と言われます。
渡邉 不思議に見えるというのはいいですね。
高田 解釈などの表現が文字だと、おのずと違ってくるというのはいいですよね。
琴坂 これが読書会の意味かもしれませんね。人によって、訴え方、刺さる場所が違うので、それを交換することができそうです。
川上 今、本に没入してビジュアル化するという話がありましたが、昨日坐禅会に来られた方にもお話ししたことがあります。
私は最近、オンラインで瞑想を教えています。音声ガイド付きで瞑想を誘導するのですが、例えばただ動詞で「こうしてください」と言うだけのときと、擬音語、擬態語を入れたときとでは、イメージの仕方、捉え方が全く変わってくるのです。
本も、そこに擬態語があるのか、擬音語があるのかや、ただ動詞だけなのかですごく違ってきます。
そしておっしゃるように、受け取る側にどういった経験があるのかによっても全く違うものになってくると思います。
漫画でしかできない表現
琴坂 それでいくと、丸さんは漫画が大嫌いだそうですが、私は漫画が大好きです。
なぜかというと、映画には表現しきれない何かが存在するからです。生身の人間では表現しきれない、出し切れない何かが表現できるからです。
漫画だと作者が見せられるものを見せまくってくるんですよね。
例えば『ベルセルク』という漫画の気持ち悪いシーンなどは、私にはとても想像できませんでした。
あれは『ベルセルク』の作者しか作ることができません。映像では作ることができないはずなんですよ。そういうのは価値があるのではないかと思います。
丸 リアルでは作ることができないものも表現できるのが、漫画の魅力でしょうか?
琴坂 そうかなって、ちょっと思いました。
結論が見えている本は面白くない
渡邉 小説家の赤坂真理さんが「フィクションの機能と作用を通すことで、個人的な物語が普遍的なものへと変容する」ことがあると話しています。基本的に事実は、その事実に関係がある人の事象だけれども、フィクションは誰もが等距離の想像の先にありますね。
丸 僕は漫画は読みませんが、サイエンスの世界で実はまだ分かっていないことをいくらでも空想できてしまうんですよ。
生命現象1つをとっても、どんな反応がどのように起きているのか、すべてが解明されているわけではありません。でも、僕の頭の中には、これまでに学んだ色々な反応が入っていますから、分かっていないこの“間”を、何百通りの反応の組み合わせで「こうなんじゃないか」と想像して、ニヤニヤして楽しんでいます。それって、怪しいですよね(笑)。
でもそうすることで、先ほどのお話にあった漫画で得られる満足感のような、世の中で表現できないものが、自分の頭の中で表現できる喜びを感じています。
漫画でなくても達成してしまっているはずなんですよ。
僕の中は漫画より激しいし、漫画を読むよりも楽しい。
それから、僕はゲームなんかもやらないんです。『ドラゴンクエスト』をやると、「バラモス(※)を倒して終わり」というゴールが見えているから、もういいかなと思ってしましまいます。
▶編集注:『ドラゴンクエスト III』に登場するボスキャラ。
倒し方が何通りかあるのでしょうが、それでもダメなんですよ。もっと豊かにやりたい。
琴坂 僕も、結論が見えている本はすぐに捨ててしまいますね。
丸 そうですよね。
琴坂 自分にとっては価値がないですよね。もうどんどん捨てる、というかリサイクルするべきだと思います。
読書は想像することで完成する芸術である
Takram コンテクストデザイナー / 慶應義塾大学SFC特別招聘教授 渡邉 康太郎さん
渡邉 今の話で思い出したのが、オノ・ヨーコのコンセプチュアル・アート作品集『Grapefruit』です。
彼女自身はものを作ったわけではなく、ただ文章を書いただけで、それが掲げてあります。
例えば、個展では「この梯子(はしご)に登りなさい」とあり、ギャラリーに梯子が置いてあるだけ。または、「頭上に1,000の太陽が浮かんでいるのを想像しなさい」と書いてある。
つまり、ヨーコが主題としたのは「想像すること」です。作家は言葉、アイデアのみ提示し、鑑賞者がそれを個々の行為を通して具現化し完成させる、という芸術のあり方でした。
この「想像芸術」は、作る人と見る人の境界をかなり曖昧にしています。見る人が想像することでいつの間にか作者化している、と言えるかもしれません。
この「想像しなさい(imagine)」から始まる一連の命令文に触れて、ジョン・レノンはあの名曲を書いたそうです。
ジョン・レノンがこの曲のリリース後に、共同作詞者としてオノ・ヨーコの名前を入れなかったことを後悔したという話もあります。
▶名曲「イマジン」ヨーコさん共作 米協会が認定(日本経済新聞 2017年6月16日)
今の話が、ちょうど僕の最後のスライドに関わってくる話です。
嶋 もし学術論文で『イマジン』できる人がいたら!
琴坂 (丸さんを見て)できますよね?
(丸さん大きく頷く)
そういうことができないと、恐らく生きていけない世界です。
渡邉 世の中の創作物にはすべて、無音の『イマジン』が響いていて、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。」(※)という文章を通して、十人十色の雪国が結像するということです。
▶編集注:川端康成『雪国』の書き出しで知られる一文。
漫画『神の雫』に見る多重の”共著”
渡邉 それで最後のスライドですが、『神の雫』という漫画です。
読書はそれ自体が創作である、という話です。
ワインは、ブドウ農家や醸造家が「作者」で、飲む人が「読者」に当たりますよね。でも実は、飲む行為も相当創作的だと思うんです。
香りをかいで、色を見て、飲んだ瞬間に「うっ、このワインは弦楽四重奏だ!」「しかも、単なるコンサートホールではない。豪華客船の、洋上の四重奏だ…」とか。これ、漫画に出てくる話ですが。
(一同笑)
1杯のワインをきっかけに、ここまでのビジョンが、つまり読み手の創作が始まる。解釈が作品になってしまっている。
そして漫画の中で、一緒に飲んでいる人が、「まさにこの味わいは、豪華客船の音楽ですね」とどんどん同調していくんです。
琴坂 もうね、清々しい気持ち悪さですよね。
(一同笑)
渡邉 気持ち悪いけど、面白い。作者、つまりブドウ農家が唯一のクリエイターなのではなくて、飲み手もすごくクリエイティブだし、その中間には、ソムリエや飲食店の人もいます。ペアリングだって、一つのクリエイションですよね。
あらゆるレイヤーの人がいつの間にか作者化している状況で、ワインから学ぶべきところは多々ありそうです。しかもボトルというフォーマットは共通なのに、色々な価格を持ち得る。
色々な生産体制や流通に開かれている。この価値観を、本にもどうにか導入できないのかなと考えています。
僕自身が昨年出版した本(『コンテクストデザイン』)は、お付き合いのある、伺ったことのある本屋でしか扱わないことにしていて、嶋さんの「本屋B&B」では販売していただいています。
(続)
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編集チーム:小林 雅/浅郷 浩子/小林 弘美/戸田 秀成/フローゼ 祥子
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