クラウドワークス吉田さん、ナイル高橋さん、Fringe81田中さんをお迎えし、「俺たちのHARD THINGS」を議論しました。
(その3)はクラウドワークス吉田さんの「『めちゃくちゃ嬉しかった』心を入れ替えるきっかけとなったお歳暮」などの体験談が共有されました。是非ご覧ください。
登壇者情報 2016年6月25日開催 ICCカンファレンス CONNECTION 2016 Session 1 「俺たちのHARD THINGS」 (スピーカー) 吉田 浩一郎 株式会社クラウドワークス 代表取締役社長 CEO 高橋 飛翔 ナイル株式会社 代表取締役社長 田中 弦 Fringe81株式会社 代表取締役 (モデレーター) 小林 雅 ICCパートナーズ株式会社 代表取締役
その1はこちらをご覧ください:「ドリコム役員解任から得た経営者としての学び – クラウドワークス吉田氏のHARD THINGS」
その2はこちらをご覧ください:「全資金投じ、累計売上2万円だったオンライン予備校サービス – ナイル高橋氏のHARD THINGS」
小林 それでは次の「HARD THINGS」へ行きましょう。
またクラウドワークス吉田さんに戻ります。
小林 これは2010年に飛びました。
吉田さんからよろしくお願い致します。
吉田 はい。あれからドリコムが苦しい中で、自分が社長であれば成功できるのではないかという思いがどうしてもありました。
当時はやはりその部分が言い訳になっていました。
そこで自分で社長をすると決めて会社をやってみたのですが、私は営業出身で何を売っていいのかわからない。
先ほどPDCAのDしかやっていないという話をしましたが、プロダクトを作ったことがないので、自分でプログラミングもできないし、何をやれば良いのかわからなかった。
そこで、半分は受託やコンサルタントをやりながら事業を立ち上げる。まあ、いわゆる一般的な起業のやり方をやり始めました。
そうすると、やはり収益事業と自社投資事業というような構図になっていきました。そして、当時ベトナムでなぜかアパレルに手を出しました。
日本の余ったアパレルを全部バルクで買い取って、ベトナムでジャパニーズ・ファッションとして売るという流れです。
最初はニーズがあって、1年くらいかけて立ち上げて、3年くらい続けました。
しかし、そもそも私は在庫を持つビジネスの経験がなかったのです。
たとえば、日本で在庫を買うのは喜ばれます。
そして、お金を払えば輸送してくれる。
向こうでお店を建てるのも喜ばれました。
こうして会社を作るところまでは結構喜んでもらっていたのですが、やってみると10個あるうちの2個くらいしか定価で売れない。
そこでいかに残りの8割を現金化するかということを現地でネットワーク化するべきだったのですが、それがないためどんどん在庫だけが貯まっていきます。
ベトナムにある倉庫がみるみる洋服の在庫でいっぱいになり、売れない在庫を眺める日々でした。
小林 それはなんとなくわかりますね。
吉田 在庫を開けて見ると、「ああ、これはもう誰も着ないのだろうな」という感じがしました。
それらの在庫は結局、受託やコンサルタントで稼いでいたお金で、私はそれをベトナムのアパレル事業に投入していたのです。
累計で1億円くらいでした。
そんなとき当然、日本で収益を立てていた担当役員が「独立します。あの取引先も一緒です」と。
主要取引先を持っていくかたちで独立したんです。周到に準備されていて、言われた時には全部そろっていたという感じでした。
高橋 完全に宣戦布告ですね。背中から刺された感じ。
吉田 ええ。だから結構ひどいところもあったのです。
彼は、私には「ベトナムが大変だと思うので、日本の取引先は僕に任せておいてください」と言っていた。
しかし、日本の取引先には「社長なのに吉田さんが来ないのはおかしいですよね」と言われた時に「大丈夫です、僕がちゃんとやりますから」というような感じで人心掌握を行っていたという話だったのです。
小林 それはなぜ判明したのですか。メールの履歴などでわかったのでしょうか。
吉田 そうです。「取引先を持っていくことが決まっている」と言われて、そんな決まっているわけがないと思い、取引先に確認したら「いや、そういうことになっています」と言われまして、おかしいなと思いました。
そこでメールを全て確認してみると、半年くらい前から、「会社はこうなのですが、僕はこう思っています」というようなメールを結構送られているのです。
気づいたら向こうは全員彼の言うことしか信じていない。
私が言うことを嘘だと思っている状況になりました。
そして、自社事業もそのクライアントからの受託の収益で成り立っていたので、自社事業も立ち行かなくなって、ベトナム事業の担当役員も辞めて、すると、最終的に一人になっていました。
小林 ちなみに社員はピークで何人くらいいらっしゃったのですか。
吉田 ベトナム人も結構いたのですが、20人くらいです。
小林 それで最後に一人になって、投資からも撤退した。
吉田 36歳だったので、人生行き詰まったなという感じでした。
マンションの西日の当たるところで毎日預金通帳だけ見て、「3,000万円はあるな」とか「僕に残されたのはお金だけだ」とか思いながら、「本当に俺の人生寒いな」「これしかないのか」と、結構暗い毎日でした。
小林 それは2010年のことですか。
吉田 2010年の年末のことです。
その本当にオフィスで一人の年末に、アクセルマークさんからお歳暮をいただきました。
もうアポイントも何もなくて後は会社を清算するだけという時に、届いたお歳暮がめちゃくちゃ嬉しかった。
覚えていてくれたのだ、と。
その時に少し気持ちが変わりました。
一回目の起業の時は、「内藤さんに対して俺はやってやる」というような俗っぽい思いとか、あるいは自分の自由にお金を使ってみたいとか、社長をやってみたいとか、自分のやりたいことをやってみたいとか、自分の「社長」というものに対する妄想のようなものを全部やってみたいと思っていたわけです。
それが社員に伝わっているから、社員もみんなついてこない。
しかし、やはり本当に欲しいのは、「人からのありがとう」なのだと思いました。
それで結構泣きながら、「俺は人から感謝されるような仕事をやろう」ということで、その時から心を入れ替えました。
小林 ちょうどその次の「HARD THINGS」と似たところがあると思います。
ということで、次へ行ってみましょう。
小林 みなさん結構、20人くらいから人がいなくなるということを経験しているのですね。
高橋 そうですね。オンライン予備校楽スタを撤退した後に、ウチはSEOなどを含めて色々なソリューションを扱うマーケティング事業をやっていました。
SEOもやるし、WEBサイト制作もやるし、リスティング広告もやるし、それこそブログサイトの構築などと言うことも。
そして、このブログサイトの構築というのが非常に評判が良かった。
このブログサイト構築は行けると思いました。
一気にここで営業陣営を拡大すれば、売上も一気に伸ばせて、次のステージへ行けるのではないかと思ったのです。
吉田 え、SEOではなくて、ブログサイトの構築事業だったのですか!!
高橋 当時、ブログサイトの中に、SEOがパッケージされていますというような商材だったのです。
これが売れるということになって、営業陣営を増やして、1年で20人くらい採用をして、営業攻勢を一気にかけた。
そして売れました。
売れたのですが、そのブログ商材の品質が、なかなか思ったより出て来ない。
つまり、成果が出てこないということで、クライアントさんからクレームがたくさん来て、どんどん解約されるという状態になってしまった。
また、その時もかなり借金をして営業陣営を増やしていたこともあり、品質側に追加で充てられるリソースがあまりありませんでした。
結果、解約ラッシュが相次ぐ中で営業がどんどん契約を取ってくるというような、穴の開いたバケツにひたすら水を流して全部下へダダ漏れというような状態が生まれてしまいました。
そうなると営業マンというのは、「なぜ、解約されるために営業を取らなければならないのだ」というふうになる。
それで、喫煙所などが会社への不満の温床になっていきました。
小林 ちなみに、当時は全体で何人いたのですか。
高橋 全体で25人くらいです。
小林 全体で25人で24人採用したというのはどういうことでしょう。
高橋 25人の組織に、24人採用して、21人辞めました。ですから、組織としても穴の開いたバケツ状態です。
吉田 逆に、残った人はなぜ残ったのですか。
高橋 当時から「こういう会社にしたいのだ」という理想は語るタイプだったので、そこを一緒にやろうという人は残ってくれました。
「この世に残るようなものを作る会社にするのだ」という理想に対して、「私は代表の思いに共感したから入ったのだから、どんなふうになっても辞めません」と思ってくれた人が15人くらい最後に残ってくれて、それでもう一回立て直したのです。
小林 お二人(高橋さんと吉田さん)の話に共通しているのは、結構社長が勝手に肩振ったりすると大変なことになるということですね。
高橋 あと、僕が得た教訓は、学生起業をする前に、インターンか社会人をやった方が良いということです。
たとえば先ほどのオンライン予備校楽スタもそうなのですが、これにプレスリリースを打った時のことです。
京都の5,000円くらいする巻物を30本くらい買って、その一つずつに筆ペンで熱いプレスリリース文書を書いて、それをテレビ局の会社に送りつけました。
吉田 ごめんなさい。たぶん誰もなぜそれをやったのかわからないと思います。
高橋 なぜかと言うと、プレスリリースを普通にファックスで送付しても見てもらえないと誰かが言っていたからです。
だから、目立たなければならないということでやったのでした。
吉田 それで巻物を届けたのですね。
高橋 はい。郵便で。
小林 ちなみに、巻物のプレスリリース文章を作ったことのある人というはどれくらいいますか?
さすがにいないですね。
高橋 だから、これも一回どこかに勤めていたら、そんなことはしないというのがわかるでしょう。
それから、この大量採用してしまった件もそうです。
順調かと思っても一気に人を増やして営業攻勢をかけたらダウンサイド・リスクがありますでしょう。これを甘く見ていたんですよね、結局。
もし仮に、これを指摘してくれる人がいたり、そこに考えが至るような経験を積んでいたら回避できた可能性があったと思います。
小林 でも、普通はそんなに大量に採用したらマズイのではないかと幹部の人たちは言いませんか。
高橋 僕が、「いや、これは絶対に行ける」と言っていたような気がします。他の幹部メンバーも社会人経験がない人が多かったですし、最後は「いける!」となってしまいましたね。
吉田 でも、そんなに高橋さんと接点があったわけではありませんが、昔と比べると丸くなりましたよね。
高橋 丸くなりました。
田中 全員丸くなっていくのではないでしょうか。
吉田 それは体型の話では。
田中 体型はだいぶシェイプされているのですよ。
高橋 吉田さんにせよ僕にせよ、出すところと引くところのメリハリがつくようになったということなのではないでしょうか。
吉田 それまでは全部出していたのですよね。
高橋 そう。全部ボコボコに殴っていたようなところがあった。
それがちゃんと防御もするようになったということです。
そういう進化はありますよね。
吉田 確かに。
小林 こういう人が辞めて大変になったという時の、経営者の心理状況というのはどうなのでしょうか。
高橋 僕は、率直な話、会社へ行きたくなくなりました。
本当にメンバーの顔を見るのもかなり辛いし、いつ誰が辞めると言ってくるかわからないなというのがありましたから。
小林 疑心暗鬼ということですか。
高橋 疑心暗鬼というか、どう考えても会社の状態はメチャクチャでしょう。
僕が何をどう繕っても、メチャクチャをやったことはみんなわかっているから、いつ呼び出されて「もう辞めます」と言われるかわからないし、その覚悟もしなければならない。
でも、それは仕方がないことです。
吉田 それが23歳の時ですか。
高橋 はい。
小林 23歳の時に、21人の人から辞めますと言われるというのは、相当辛いことだと思います。
また、辞める時に結構いろいろ言われますでしょう。
高橋 言われます。役員が2009年に一人辞めて、翌年の春にもう一人辞めて、全員辞めてしまったのです。
そして、2009年に辞めた役員の一人からは、「あなたのことが悪魔に見える」と言われました。
これは結構ショックでした。
吉田 それは結構行くところまで行っていますよ。
小林 社長になれば当然良い時も悪い時もあるでしょう。
特に、社員から辞めると言われた時に、何か印象に残る一言というものというのはありますか。
吉田 今日は質問も「HARD THINGS」ですね。
ちょっとこれは生々し過ぎるのですが、「社長が嫌だから辞めます」という声がありました。
その時、「悪魔」ではないですけれど、「吉田さんと話すと萎縮して、本音が言えない」ということでした。
そして、「このまま吉田さんと仕事をしていても、私自身が良い仕事をできない」との意見を聞き非常に反省しました。
小林 なるほど。ありがとうございます。
(続)
編集チーム:石川 翔太/小林 雅
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