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開催前夜、新たな学びを受け入れる心をつくる。自分を見つめ、自分を明らかにする坐禅体験【ICC KYOTO 2021レポート】

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9月6日~9日の4日間にわたって開催されたICCサミット KYOTO 2021。その開催レポートを連続シリーズでお届けします。今回は、9月6日の特別プログラム「自分を見つめ直すZENリトリート (妙心寺 退蔵院「坐禅体験」「精進料理付き特別拝観」)」の模様をお伝えします。ぜひご覧ください。

ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。毎回200名以上が登壇し、総勢900名以上が参加する。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に議論し、学び合うエクストリーム・カンファレンスです。 次回ICCサミット FUKUOKA 2022は、2022年2月14日〜2月17日 福岡市での開催を予定しております。参加登録は公式ページのアップデートをお待ちください。


2020年よりも1週間遅い開催となったICC KYOTO 2021。初日のプログラムは、スピーカーとして過去にご登壇いただいている松山 大耕さんが副住職を務める妙心寺 退蔵院で、座禅を体験して、精進料理をいただき、ライトアップされた庭園を拝観するというプログラムだ。

肉体的にも精神的にもフル回転している多忙な経営者たちの時間を一時止めて、京都らしさを五感で体験できるこのプログラムは、前回の開催でも高い満足度を達成し、今回も募集とともにすぐに満席となった。

夏の夕暮れの妙心寺へ

5時近くに妙心寺 退蔵院に到着すると、この明るさだが、風は秋めいて夕方にかけて涼しくなってきた。

妙心寺南門

退蔵院は、「小さな瓢箪で大きなナマズをいかに捕えるか」という禅問答に31人の禅僧侶が回答した日本最古の水墨画「瓢鮎図(ひょうねんず)」で知られる臨済宗の寺院(原本は京都国立博物館に寄託)。寺院のそこここには、ひょうたんやナマズのモチーフが見られる。

特別プログラム「自分を見つめ直すZENリトリート」の舞台、京都妙心寺・退蔵院を拝観しました!【ICC KYOTO 2020 下見レポート】

今日のこの場をアレンジいただいたのは、昨年に引き続き、京都の観光や食のツアーを企画・開発する株式会社のぞみの藤田 功博さん。ICC KYOTO 2021の美食体験のレストランをご紹介いただくなど、さまざまにサポートいただいている。

藤田さん「ICCというエネルギー渦巻く、人との話の中に刺激がたっぷりあるインプットが非常に多い場、本当に素晴らしい3日間が始まっていきます。その前日に、京都のゆったりした時間の中に身を委ねて、肩の力を抜いていったん頭の中を空っぽにしていただくと、3日間を良い心の状態で迎えていただけるんじゃないかと思っています」

ZENリトリートの流れを説明するのぞみの藤田さん

松山さん「改めましてこんばんは。ようこそ退蔵院にお越しくださいました。

先日訪問した佐賀県の祐徳稲荷神社の先代の奥様が104歳で亡くなられて、生前におっしゃっていたことには、コロナよりもスペインかぜのほうがよほど大変だった、若い人が本当にコロコロなくなって、比べ物にならないぐらい大変だったという話をされていました。

パンデミックというのは約100年に1回起こっております。ちょうど皆さんが今お座りになっているこの場所(本堂)は、1597年に建てられました。関ヶ原の戦いの少し前でございます。だからだいたい4回ぐらいはパンデミックを経験しているはずなんですね。

このお寺そのものも600年経っておりますので、その間にいろんなことがありました。応仁の乱で全部焼かれるとか、あと慶長伏見の大震災とか、いろんな出来事があったわけですが、そのたびに生き延びて、続けてきたわけですね。l

先が分からない、直近の1カ月後もどうなっているか分からないという大変な世の中になっているわけですが、そういうときには歴史に学ぶというのは必須だと思います。そして、今後の皆さんのお仕事に役立てていただけたらと思います」

挨拶をする退蔵院副住職 松山 大耕さん

座禅をする本堂でご挨拶をした後の流れは、精進料理をいただいたあとに坐禅体験をし、そのあと夜間特別拝観というツアーになっている。

妙心寺御用達「阿じろ」の精進料理ディナー

座敷に用意されたテーブル席についた参加者たち。密を避けて、1組4人席で、十分にスペースをとった配置がされている。

いつもの緑色のネクタイ姿ではなかったので、発見が遅れただけかもしれないが、いつの間にか松山さんの隣にユーグレナの出雲 充さんがいる。松山さんとは親しそうな雰囲気だ。

お料理は、9月9日の重陽の節句が菊の節句といわれることから、白和えや酢の物、うどんにまで黄色の菊の花びらが使われており、途中で阿じろの料理長、妹尾 吉隆さんが、料理をご紹介くださる場面もあった。菊は、殺菌・解毒作用があるうえ酷使しがちな目を労わる効能があるといわれている。

「菊を薬のような感じで食べていただければ」と妹尾さん

精進料理といっても、肉けのない物足りなさはまったく感じない、多忙なビジネスパーソンの疲れを癒やすような体に優しい料理を囲んで、和やかな雰囲気になってきた参加者たち。ここで藤田さんの前振りから、出雲さんにマイクが渡った。松山さんとは、東京大学農学部で先輩と後輩にあたる関係だという。

出雲さん「私は後輩なので無理なのですが、松山先輩はめちゃくちゃ優しい人なので、何を聞いても怒りません。今日このチャンスに『これ、ちょっと聞ける人がいないんだよな』という質問を、松山さんにお聞きになってみてください」

どうやら松山先輩のために、この場の司会を買って出てくださるようだ。まずは、出雲さんが相容れない人に立腹せずいかに対応するかについて質問すると、松山さんは袈裟姿のときに別の宗教の人に勧誘をされた話を語り、ローマ法王に謁見したとき進呈した本の抱腹絶倒エピソードを紹介、どんな質問でもOKという雰囲気を作る。そのQ&Aのダイジェストを少しだけお伝えしよう。

三栄商事の後藤 正幸さん「ずっと疑問に思っていたのですが、瞑想と座禅の違いとは?」

松山さん「グッドクエスチョンをいただきました。『瞑想』はいわゆる心を静かに落ち着けて、自分と向き合うこととして、そのうちの一部が『坐禅』と考えてもらっています。『瞑想』というのは、別にどこの宗教の専売特許でもなく、ほぼ全ての宗教にあります。

忙しい生活の中で静かな時間を持って自分を見つめる、そういう時間はどの宗教でも必要だと思います。

『坐禅』の特徴は、『型』と『目的』というのがあります。最近では椅子の坐禅や寝てする坐禅もあるのですが、『型』というのはあぐらになって脚を組むことですが、とても重要です。気の中心、へその下あたりの丹田(たんでん)が、ちょうど重心の真ん中に来ます。『型』で、ちゃんと気と呼吸を整えるというのがひとつです。

もうひとつは『目的』ですが、最近マインドフルネスとか流行っていますよね。

マインドフルネスっていうのは仏教に八正道(はっしょうどう)、8つの正しい道というのがあります。例えば正しい言葉を使いましょうとか、正しくものを見ましょうといったものですが、そのうちのひとつが『正念』、正念場の正念ですね。それを英訳するとマインドフルネスです。

いわゆる流行りのマインドフルネスは、パフォーマンスが上がるからとマインドフルネスをやられる。非常に功利的です。本来の禅の目的はそうではなくて、は”自分を明らかにする”ということです。

現世的なものを求めるのではなく、自分を明らかにする、お釈迦様が何をしたか見出したいとか、プラス『型』をちゃんとやるというのは坐禅の特徴だと思いますね。他の瞑想が悪いとか一切ないですよ。例えばヨガでも、それはそれで私は意味があるなと思います。

他の宗教では、一神教でキリスト教でもイスラム教でもユダヤ教でも、神様は全能の神だから、人知を超えた存在です。ですから、どれだけいい人であっても、どれだけ努力しても神にはなれません。

一方で、仏教のお釈迦様は、特殊な能力を持っているかもしれないけれど、歴史上で実在した人物です。そして私たちは存在を信じているわけではなくて、お釈迦様が悟ったということを信じているんですね。誰も証明できないけれど、あの人はすごいことをしたということを信じている。

人は、いくら説明されても体験しないとわからないことがあります。本には雷に打たれたようだとか色々書いてあるけれど、そんなことを言われてもわからない。そこで、お釈迦様が苦行を積んで修行をして、最後坐禅をして悟りを開いたというのを追体験してみようというのが、禅宗というか坐禅です」

アックスヤマザキ山崎 一史さん「最高の死に方を目指しています。さまざまな人を見ているなかで、それはどんなものだと思いますか?」 

松山さん「非常にいい質問、ありがとうございます。すごく活躍されてみんなからも慕われて、最期その終わり方か、みたいな残念な人は結構います。

(一同笑)

結局9回裏ツーアウトまで勝っていても、最期そうなるのは、トータルの人生としてみると、ああかわいそうやったな、ってなります。

今まで見た一番いい死に方というか生き方は、私、5歳ぐらいのときに、あるおじいちゃんの死に際にお会いする機会がありました。ベッドの上でおじいちゃんが寝てはって、その横におじいちゃんの娘さんが『おじいちゃん、なんでご飯食べへんの?』と聞かはるんですね。『食べへんかったら元気出えへんで』と。
そうしたらおじいちゃんが一言、『ほっといてくれ』と。『今めっちゃ気持ちいいんや』と言って、2時間後にはしゅっと亡くなったんですよ。あれは本当に子どもながら、なんて見事な最期なのかと、いまだに鮮烈に残っていますね。

ちょうど1年前に退官されましたけれど、京大の前総長 山極(壽一)先生というゴリラの専門家がいらっしゃいます。何回か対話する機会があって、このAIの時代において人間の定義とは?という話題になったときに、山極先生は『人間の定義は宗教を持っていることだ』とおっしゃったんですよ。

宗教家のはしくれとして全然そんなふうに思っていなかったのですが、先生曰く『全ての生物の中で唯一人間だけが自分が死ぬということを知っている』と。そうすると何が起こるかというと、老後資金2,000万円問題じゃないですけど、人生あと何年残っているのか逆算するんですね。そうするとそこに不安が生まれる。その不安を少なくする、無くすのが宗教の役割であると言うのです。

もうひとつおっしゃっていたのが、生物の一番自然な亡くなり方は餓死ということ。上野動物園にゴリラがいて、先生と飼育員の方と、3人が同い年だったんです。45歳のころに、飼育員の人から突然電話がかかってきて、『先生、あのゴリラ死んじゃうよ』と。体のどこも悪くないけれど、1週間前から何も食べなくて、その電話の2、3日後にしゅっと亡くなったそうです。

命の最期の最期までいくと、もう食べる気も、飲む気も無くなる、これはやっぱり苦しまずに自然に旅立てる準備なんですよね。そうすると、さっきのおじいちゃんのように、もうええと、ほっといてくれと。これがたぶん一番見事な最期だったなと私は思っています」

贅沢なQ&Aセッションは、出雲さんの「現世利益、自分の利益ばかり考えているような皆さん! これは元がとれたんじゃないですか?」という爆笑の締めで幕引きとなり、一行は再び、坐禅体験の間へ向かった。日没して、周囲は虫の声と風の音が聞こえるばかりである。

坐禅体験スタート

松山さん「坐禅の、禅の世界に『無用の用』という言葉があります。これは漢字でどう書くかというと、『無用』。無理の無に用事を済ませるの用。そしてもう一つ、『用』がつきます。

例えば皆さん、仕事が終わって、喉がカラカラで家に帰ります。何か飲みたいなと冷蔵庫を開けて、ジュースとかビールとかを取り出して、それをグラスに注いで飲むわけですけれども、例えばそのグラスがすでに水でいっぱいだとしたら、入れた瞬間にこぼれます。

当たり前の話ですけれども、このグラスは、空っぽだから意味があるんですね。中に何も入っていないから、初めて役に立つ。

私たちの心も全く同じです。例えば会社でめちゃくちゃ大きなミスをしたとします。家に帰って家族とご飯を食べるとき、ご飯そのものはおいしいかもしれないけど、『なんであんなことしたのか』とか『あれどうしよう』とか、頭がずっともやもやしているとご飯が全然おいしくない。味もしない。すぐおなかいっぱい。会話も楽しくない。そういう状態になるんですね。

ですから、何かを食べて『あっ、おいしいな』とか『めっちゃきれいやな』とか、なぜそう思えるのかというと、自分の心が空っぽだからです。ですから今日は皆さんには、この坐禅というのを通して心を整えていただいて、明日からの3日間、いろんなものを吸収して帰っていただけるようにしていただきたいと思います」

それから松山さんは、坐禅中は集中を妨げるマスクや腕時計などを外すように言い、先ほどの話でもあった、姿勢と呼吸を正して心を整える「型」を丁寧に説明した。初心者が最初から頭を空っぽにするのは難しく、鼻から吸って、鼻から吐く深い呼吸に合わせて数を数えてみるのがいいそうだ。

手は、広げた左手の親指を右手で握り、残る左の指で右手を包み込んでへその下に置く

警策(けいさく)を手にする松山さん

松山さん「私たちも人間です。坐禅をするとき眠くなります。しかし寝ていては悟りに近づけませんので、そういった際にはこの棒で背中を叩いて励まします。どうしても眠たい、どうしても集中できないと思ったら黙って合掌、手を合わせてください。そうしましたら、叩きにいきます。ちょうど目の前に出雲社長がいますね(笑)」

警策が一閃し、想像より鋭い音がした。

出雲さん「起きました!」

どっと笑いが湧いたが、この”励まし”は修行に比べるとはるかに優しいもので、本当ならばフルスイングで警策が1週間で100本折れるそうだ。

今回は10分の坐禅を2回体験する。松山さんの合図とともに、1回目が始まった。

脚を組み、背筋を伸ばして目をうっすらと開け、鼻からゆっくり呼吸しながら数を数え、最初の10分間はあっという間に過ぎた。松山さんは木を打ち鳴らす音と鈴で、一同を呼び戻して語る。

松山さん「坐禅中に集中できなくて、頭の中に歌がずっと流れていたりします。そのうち歌もサビも思い出せなくなってきて、その辺から『もうええわ』ってなるんです。そうすると、すーっと坐禅に入っているんですよね。

いきなりいい坐禅ができたら修行なんかいらないわけです。いろんなこと考えるのは当然ですね。ではそのいらんこと考えたら意味ないかというと、決してそうではなくて、つまりこの禅というのは気づきの宗教なんですね。

普段忙しい生活をして何気なく生きていると、このように日常的に皆さん、頭の中でしょうもないことばっかり考えているのですが、自分がしょうもないことばっかり考えていることすら気づかない。

こうやって静かに姿勢を正して呼吸を深くやってみると、例えば虫の音がこんなに聴こえるんだとか、昼間は暑かったけど、すごくさわやかないい風が吹いてるなとか、そういうのを五感で感じてきます。

普段も感じているんだけれども、人間の脳っていうのは非常に優秀で、そういうものをキャンセルするわけですね。そういった自分の囲まれている世界が実は、なかなかいい所じゃないかと、それを気づくというのも、1つ重要な坐禅の役割です。

ですから過度に頭を空っぽにするとかではなく、ざるに水を通すがごとく、畑に水が流れるがごとく、鳥が鳴いているな、ザーッと流す。風が気持ちいいな、ザーッっと流す。お線香いい香りだな、ザーッっと流す。そういう感じで本当に純粋に入ってきたものを楽しむ。それを心がけて2回目、集中してお楽しみいただければと思います」

坐禅は、夕焼けや朝焼けなどの光の下でやるのが一番よく、夜も真っ暗闇ではなく少しの灯りがあり、可能であれば窓を開けて自然の音、風の音を感じると集中しやすいそうだ。

10分×2回の坐禅体験が終わると、近くにいた人と車座になって感想を共有。「無になれるときがなかった」「脚が痛かった」「集中力がないと思った」「10分間が長かった」などの感想が上がる。初挑戦した方が多く、「お客さんを体験に連れてきたいと思った」と、終始仕事から頭が離れなかった方もいたようだ。

食事を共にし、坐禅体験とディスカッションを経て親密になった参加者たちは、体験が終わっても話を続けている。

このツアーの運営を担ったスタッフ一行も、坐禅中は言い出せなかったようだが、体験が終わったあと、翌日からの運営に向けて松山さんから“励まし”をいただいた。

人工の音が全く聞こえない妙心寺の夜に、ライトアップされた庭園が浮かび上がる。忙しい日常生活とは別世界の景色と体験は、まさに京都ならではだ。朝の坐禅も清々しい雰囲気が素晴らしいが、夜の坐禅はより自分と向かいあう時間となり、全く別物のように感じた。

松山さんは「すでに自分の中に答えはあるが、それをちゃんと見出す時間と場がない。お寺に来ると雰囲気も変わり、空気感やその場が保つ力で答えを見出される」と言った。慣れればどこでも坐禅はできるというが、慣れないうちはこの環境がスイッチとなるのだろう。

心に新しいものを受け入れるスペースを作ることを学んだこのZENリトリートは、「ともに学ぶ」3日間の前夜には絶好の体験というと、現世利益に囚われすぎだろうか? しかしICCサミットに限らずとも、こういう時間を持つことは、時代の変化を受け入れながらも自分の信念や事業を見つめ直すために、忙しい経営者にとって必須なように思うのである。

(終)

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編集チーム:小林 雅/浅郷 浩子/小林 弘美/戸田 秀成

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