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自分の命の時間を、あなたは何に代えるのか? ジャパンハート20周年チャリティディナー開催レポート

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過去にICCサミットに登壇した、国境を超えて医療を届ける特定非営利活動法人ジャパンハートのファウンダーであり最高顧問の吉岡 秀人さん。その設立20周年を記念して、去る2024年4月4日、「ジャパンハート設立20周年記念チャリティディナー powered by ICCパートナーズ」を開催しました。普段のICCサミット開催とは違い、参加者もスタッフも正装して、パレスホテル東京に集結したこの夜の模様をレポートします。ぜひご覧ください!

ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に学び合い、交流します。次回ICCサミット KYOTO 2024は、2024年9月2日〜9月5日 京都市での開催を予定しております。参加登録は公式ページをご覧ください。


ジャパンハートとICCのつながりとは

 この日を遡ること約1カ月前のICC FUKUOKA 2024、カジュアルな服装やユニフォームで朝から晩まで賑わう会場を行き来していた時と比べて、今日は何と雰囲気が違うことか。いつも素晴らしいホテルで開催しているICCサミットだが、この日、パレスホテル東京に集った参加者たちは正装しているとあって、雰囲気は一変していた。

 タキシードにドレス、和装、民族衣装という華やかないでたちの280名が集うこの場は、今回ICCパートナーズが主催したジャパンハート20周年チャリティディナー会場。なぜ、ICCパートナーズがジャパンハートの周年パーティーをするのか。それは14年前に遡る。

チャリティディナーのオープニングスピーチをする小林 雅

 ICC代表の小林 雅はICCの前に運営に携わっていたIVSで吉岡さんを招き、その講演を聞いて人生観が変わるほどの衝撃を受けた。2016年、第1回目のICCサミットの開催にあたってのメッセージでは、すでに現在のICCスタンダードに通じるメッセージと、吉岡さんの名前がある。

 

 年齢も、見た目も、やっていることも全く違うが、現在のICCの活動に至るまで、吉岡さんは小林に大きな影響を与えた人物である。この日も含め事前のオフィスイベントなどで、小林は何度もその影響を口にした。

 過去の吉岡さんの登壇記事でもあるように、「自分がやりたいことを実現する人生」もそうだし、「頭に入れたままにせずアウトプット、言語化して客観視する」を日々実践している。ほかにもいろいろあるだろう。小林は吉岡さんの言葉や思想に共感して、人生が変わっている1人かもしれない。

 吉岡さんが1995年にミャンマーで無償の医療活動を始めて2024年で29年、ジャパンハートが設立20年、その活動を寄付で賄っており、これだけ続いているのは驚くべきことだ。2023年夏、小林はジャパンハートの理事でもあるシンクロ西井 敏恭さんのお誘いでミャンマー、カンボジアの拠点を訪問して再び心を動かされ、20周年の記念として、チャリティを兼ねたディナーパーティーを企画した。

  ICC FUKUOKA 2024終了後の正味1カ月、昨年から下見や打ち合わせをしてきたものの、ICCオフィスでYouTube番組「秀人の部屋」の収録、4月3日は前夜祭もあり、直前はカオスな忙しさ。福西 祐樹さん、荒木 珠里亜さんをはじめ、ICC運営チームのサポートなしでは、この初挑戦のイベントの成功はありえなかった。

ICCサミット同様、今回のイベントでも司会を務めた荒木 珠里亜さん

吉岡 秀人さんの講演会

 前半は吉岡さんの約1時間の講演。スライド作成についてはICCスタッフの森田 竜馬さんが手伝い、ジャパンハートが長年使ってきたスライドをアップデートした。

 ほぼ満席となった会場は水を打ったように静まり返り、吉岡さんの話に聞き入っていた。

 ミャンマーで医療活動を始めた当初、無料で診てもらえるという噂が高まり、毎朝、医療を受けるお金のない人たちが吉岡さんの住む家の前に集まるようになった話。当初はその人たちに朝から深夜まで一生向き合っていればいいと思っていたが、やればやるほど集まる人が増えて、対応しきれなくなり仲間を集めた話。

 ジャパンハートは現在、年間約3万4千件の手術を行っている。その1件目は30年前、吉岡さんの元を訪れたものの手術はできないと断った、眉間から脳が飛び出してしまっている子どもとその母親が去っていく背中が、吉岡さんの頭から離れなかったことにあるそうだ。

「僕はこういう人たちに医療を届けたくて医者になり、彼らは最後の期待をかけて、僕の前にたどりついた。でも僕は手も足も出ないから、できないと返す。そのシーンを毎晩思い返して、僕は、これに耐え続けることができるのだろうか?と思ったんです。

明日こそは、手術すると言ってあげようと思って眠るけれど、朝起きたらまた忙しい1日が始まる。このままでは僕はもう、手術をするか、ここを去るしかないと思ったんです。神様がやれと言ってくれればいいのだけど、自分で決めるしかありません。

電気が1日2時間しか使えない環境、麻酔や器具もない。僕の仲間は運転手さんや通訳さんたちで、1人で手術をしたことがない。手術をしない言い訳はいろいろできました。できたけれども、やると決めました」

窓を多く作って手術室を明るくし、夕方には懐中電灯で手術台を照らすようにし、器具は煮沸滅菌。半年後には手術にこぎつけていたのだという。このときから何千人、何万人もが救われているのは、そのとき吉岡さんがやろうと決めた、その心の変化だけなのだ。

自分の人生の質は、自分が何をしたかで決まる

「時間さえあれば、どんなことでもできる。今いるこの建物だって私は建ててみせようと思います。でも寿命があり、長くて100年のこの人生、その間に僕は何をやっていくかを決めなければいけない。

何をやってもいいと僕は思うんです。寝てても、喋っても、旅行に行っても、遊んでてもいい。

簡単にいえば、何をしているかということは、自分の寿命をそれに代えているだけなんだと思い至りました。何をやったか、それを集めたものが自分の人生の質になる。ただそれだけ、すごく単純なことなんだと思いました。

僕は、こういう子どもたちの命や人生に、自分の命の時間、寿命を代えていこうと30歳のときに誓ったんです」

 先進国では小児がん患者のうち8割が助かる一方、ミャンマーでは、現在でも1割しか助かる見込みがない。日本の医者の中で誰よりも亡くなる子どもたちを見送ってきたと思う、と言う吉岡さん。厳しい状況にある命であっても、生まれてきてよかったと家族や本人に思ってもらえる「心が救われる医療」への挑戦も続けている。

 子どもが辛い治療に耐えている姿ではなく、1日でもご飯を思い切り食べた日、たくさん笑った日があれば、親はその幸せな姿を記憶できるのではないかという考えのもと、親子が行きたい場所、好きなところに医療者同伴で連れていくという「スマイルスマイルプロジェクト」がその1つだ。

 このプロジェクトで、人生の最後にサボテン公園を訪れることのできた末期がんの子どもの訃報を、最難易度の手術の合間に聞いた吉岡さんは、自分は何と幸せなのかと感じたという。

「それは大変な手術で、なんで僕はこんなものにぶち当たったのか、なんてついてないんだと思いながらやっていたんです。血だらけの手術着を換えようと控室に戻ったときに、その子が亡くなりました、というメッセージが携帯に入りました。そのときに本当に正直に、僕はこう思いました。

『僕はミャンマーに来て、またこんな大変な目に合っている、なんて幸せなんだ』と。

こうして生きていることの幸せを本当に感じました。

僕は人生の豊かさは、いいことと悪いことの落差であると思っているんです。

僕とこの子には40歳ほど差がありますが、僕が経験した40年ほどの豊かさが、この子の人生から消えたのだなと思いました。

僕も人間だからその40年間、辛いこともたくさんありましたが、いいこともたくさんあった。その全てがこの子には無いと思えば、僕がその時間を過ごせていることは、ありがたいことだなと思ったんです」

 すでにある病院はすでにキャパシティを超えており、今回のチャリティディナーの主旨は、2025年にカンボジアに開設する新病院建設のため。ターゲットは貧困層の小児患者で、200床を予定している。

 ジャパンハートはミャンマーから始まり、カンボジア、ラオスに活動拠点が増え、2016年の熊本地震から、直近では新型コロナウイルス感染症のクラスター発生施設や能登半島地震など、国内の医療緊急支援も行っている。

 それに加えて少子化が進む日本は症例数が少ないため、アジアの拠点で若い医師の実践の機会を提供して現地の子どもたちを助けながら、将来は私たちが受ける医療を磨く場ともなっている。

 頭の大きさほどの腫瘍を抱えている子ども、日本でも症例の多い口唇口蓋裂の子ども、ひどい火傷を負って体が変形してしまった子ども。彼らは吉岡さんたちに出会わなければ、医療を受けることができなかった。吉岡さんたちが救うことのできた子どもたちは、医師を目指すと言い、結婚し、自分の力で歩くことができている。

 病院に辿り着くために、全財産を使って借金をしてまで困窮している人たちだ。子どもたちへの医療は、すべて無償で提供されている。活動資金は、はじめは吉岡さんの貯金を切り崩し、現在は寄付で賄われている。吉岡さんは講演の途中でこともなげにこう言った。

「常に社会からのデマンドにどう応えていくかというのが僕の人生なんです。

全ての人を助けられるその日が人類に来るまで。僕たちは、そのプロセスにいるだけです。

ですから到達点もない。ただひたすらそうやって生きていく。それが僕の人生で、比較的満足しています」

 日々、子どもの生死に立ち会い、時には治療しないほうがいいかもしれないという葛藤を抱えながら、医師である自分にできることを全うしようとする。社会からのデマンドは増すばかりで、この気の遠くなるようなプロセスを歩むには、むしろ続けようとするほうが大変に思われる。

 それにも関わらず、吉岡さんは自分の心に忠実であることに満足だと言い、今も、おそらく明日もやり続けるに違いない。社会起業家でなくても、信念を曲げずに貫く姿は憧れであり、理念への共感で規模を拡大しているのは、進行形の奇跡を目の当たりにするようである。

 会場は総立ちとなって、会場中央を通って退出する”現代の偉人”、吉岡さんに大きな拍手を送った。

 ホワイエに溢れ出た人たちは感動さめやらぬ様子。それぞれ使命があって、大きな責任を担う経営者・起業家たちだが、吉岡さんの講演を聞いたあとは、改めて発奮したような表情だ。

 ホワイエでは、ジャパンハート20周年を祝って旭酒造の櫻井さんからはお祝いの「獺祭純米大吟醸45 にごりスパークリング」が、稲とアガベからは先日のSAKE AWARDでお披露目されたばかりの「花風」が、ICCの北原透子さんからは「フランチャコルタロゼ」が提供されていた。

フォトブースも用意され、講演を終えたばかりの吉岡さんは大人気。参加者たちと一緒に快く写真に収まり、その写真はすぐに参加者たちのSNSから、ジャパンハートの活動紹介とともに発信されていった。

チャリティディナー

  後半は隣の会場へ移ってチャリティディナーがスタート。今回、ブロンズスポンサーとして開催にご協力いただいた、一休WiLにも感謝をお伝えしたい。

 今回の場を設けた背景が、改めて小林から伝えられた。

「過去にICCサミットで吉岡さんに登壇いただいたことがあったのですが、複数会場・同時開催のため、大した人数は集まらず、吉岡さんのよさも活かせず、申し訳ないなと思って月日がたちました。

▶️吉岡さんが登壇&ジャパンハート関連の過去記事一覧

昨年、シンクロ西井さんから、ミャンマー、カンボジアに行きませんかとお声がけいただきました。

マサさんはジャパンハート絶対好きだと思います、と言われ、西井さんは一体誰から知ったんだろうと思って聞いたら、ファクトリエ山田さんの紹介と言われました。実は山田さんにジャパンハートを紹介したのは僕なんです。

めぐりめぐってきたのが運命だと思って、ICCサミット京都開催1カ月前の忙しいタイミングだったのですが、娘たち二人を連れて、久しぶりに吉岡さんに再会しました。実際に手術の現場を見て、10年たってもまだ現場に立ち続けている姿に感銘を受けて、いろいろ話したんです。

そうして吉岡さんの話を聞いているうちに、僕の話を聞いているんじゃないかと思ってですね(笑)、7〜8年も話していないのに、それほどまでに、吉岡さんから僕は大きな影響を受けているのかと改めて思ったんです。

その考え方のきっかけが、講演でした。聞けば考え方が変わると思うんです。吉岡さんの講演をこれからの可能性ある人たち、20、30代の社会を変えるような起業家の皆さんに、ぜひ聞いてもらいたいなと思って、この場を企画しました」

 主旨は病院建設のためのチャリティだが、小林にとっては、吉岡さんの話を若い世代に聞いてもらうことも同じくらい重要だった。自分が素晴らしいと思い、影響を与えてくれた人のためのイベントを開催する人がどれだけいるだろうか? しかも、話を聞いてもらいたい人たちを呼び集めたのである。

 この日はミャンマー、カンボジア、ラオス、日本の各拠点で働いているジャパンハートのみなさんも民族衣装やドレスをまとい、各テーブルに分かれて着席していた。彼女たちが、あの過酷な現場で日々従事しているのかと思うと、聞いたばかりの話に一層リアリティが増す。小林は彼女たちにも拍手を送るよう促した。

立ち上がって挨拶をする、各テーブルのジャパンハートの皆さん

ICCでもおなじみのジャパンハート理事たち

「一休とご紹介いただきましたが、ジャパンハート理事の榊です」と榊 淳さん

「今日はビジネス界の大物たちが、ジャパンハートのみなさんと一緒に、こんな素晴らしい夜を過ごしていることを心から嬉しく思います。

吉岡先生の素晴らしいお話のあとに、ジャパンハートの活動について一言申し上げるとしたら、ジャパンハートさんは、吉岡先生を始め、総勢200名近くの本当に素晴らしいスタッフがこの活動を支えています。

一人ひとりのみなさんが、もれなく本当に美しい心で働いていらっしゃる、それがジャパンハートさんです。カンボジア、ミャンマー、ラオス、日本も含めて、彼らの活動を目にすることがあると、つい心が感動してしまう、それがジャパンハートさんだと思っています。

ますますのジャパンハートさんの発展をお祈りして、乾杯!」

 榊さんの乾杯の挨拶で、ディナーがスタート。ステージでは、ジャパンハートの各拠点の代表者が活動を紹介した。

ジャパンハート カンボジアこども医療センター院長 神白 麻衣子さん 

 神白さんは、2007年の長期ボランティアからジャパンハートに参加。小児がんや脳瘤、やけどの子どもたちなど、カンボジアの立ち上げから携わり、日々、カンボジアの病院『ジャパンハートこども医療センター』院長として医療に従事している。

「長い間治療をしてきましたが、なかなか命を助けられなかったのが小児がんの子どもたちです。たくさん出会うなかで、全員を日本に送るわけにはまいりません。私も正直、まさかカンボジアで小児がんの治療ができるとは思ってもみませんでした。

 でも吉岡先生の強い意思、小児がんの専門医の先生、たくさんのみなさんのご協力で、小児がんの子どもをたくさん治療できるようになりました。病床数は29ですが、年間で100名に近い患者さんたちが我々の病院にきてくれるようになりました。

今の施設では、今来ている患者さんたちを治療するのが精一杯ですが、カンボジア国内にはまだまだたくさんの小児がんの子どもたちがいて、近隣のミャンマー、ラオス、近隣の国を合わせたら1,200人以上の患者さんたちが残っている。もっと私たちの治療を届けなければいけないと思うようになりました。

2025年、来年の後半に200床レベルの新病院の建設を予定しております。小児がんだけでなく、たくさんの高度医療が必要な子どもたちをここで助けようと考えております。子どもたちは、無料で治療したい。なぜならお金を取るようになると、お金の無い人たちが来られなくなってしまうからです」

 神白さんたちの病院では、小児がんの子どもを5割助けられるまでになったという。それをさらに広げられるかどうかは、善意の寄付による新病院の建設にかかっている。この夜、1人100万円の名誉ファウンダーが20名、名乗りを上げ、目標の100名達成まであと残り10名となった。

チャリティオークションがスタート

 神白さんの話を聞いて、誰よりも気合いが入ったのは、その次に始まったチャリティオークションの司会、小林である。ICCサミット会場でヘラルボニーのオークショニアを務めたことがあるが、「こういう大会場は初めてで、緊張しています」と始めたものの、一旦始まるとノリノリだ。

 オークショニア小林は、理事二人と自分をフル活用してその場で商品にどんどん付加価値をつけ、会場を盛り上げて値段を釣り上げていく。何のためにそのお金が使われるかは明白だ。商品をご提供いただいた方々は、吉岡さんやジャパンハートの活動への共感を合わせて伝えた。

 運営スタッフも壇上でサポート。白いドレスの豊島 里香さん、赤いドレスの権藤 もにかさんが登壇し、華やかに場を盛り上げた。

ファクトリエの山田 敏夫さんは、大正元年の旧式、昔の織り機で作った生地を使ったオーダーメイドのスーツ10万円相当を出品。

そのスーツを着て、山田さん、小林と3人で鮨に行く権利として販売し、40万円で落札。

LOOOF丸谷 篤史さんは、第10代日銀副総裁の別邸を移築した赤城宿につくっている新たな古民家宿、6人まで宿泊できる40万円相当の宿泊を出品。

丸谷さんと、ジャパンハートもう一人の理事、シンクロ西井 敏恭さん、小林と一緒に行くプランとして、70万円で落札。

TeaRoom岩本 涼さんは、一人3.5万円〜5万円相当の6名〜8名、食事、お酒を含む約4時間のお茶事の権利を出品。15万円からのスタート。

ジャパンハート理事の榊さんも参加のプランとして50万円で落札。

ヘラルボニー松田 文登さんは、ギャラリーや内装のホテル訪問、ラッピングのJRやバスの乗車体験、福祉施設の作家に会うなど、松田兄弟で案内する一泊二日の岩手ツアーを出品。20万円からスタート。

松田さん自ら小林さん同行をアドオンし、75万円で落札。

五島列島なかむらただし社中村 直史さんは、ICCサミットのなかでも参加者の満足度100%、最高評価の3時間、30〜200名まで対応できるワークショップを出品。30万円からスタート。

160万円で落札。

 続いて、ジャパンハート理事の西井さんが登壇。5年前にカンボジアを訪れて以来、ボランティアでジャパンハートのマーケティングに会社として関わり、理事として経営に関わっている。何度も話を聞いているはずの講演で今回も号泣していた西井さんは、ジャパンハートの視察ツアーを参加者に呼びかけた。

「社会に対してどういうことができるかは、経営にとって大事なこと」と西井さん

「私は毎年現地の訪問をしていて、知り合いの経営者に限定してお声掛けしておりました。離れた場所なので、どうしても4日くらい必要なのですが、ぜひいろんな方に見てもらいたいと思っています。

僕は上場会社の経営もしていますが、社会に対してどういうことができるかというのは、経営にとって大事なことだと思います。自分の社員を連れて行ったときは、みんなとても感動して、すごくモチベーション高く働いてくれているので、ぜひ経営者の方に見てもらいたいと思っていました。

ジャパンハートの方って、ものすごく忙しいんです。特に吉岡先生がミャンマーにいるときは、朝6時から深夜の12時まで、1日オペを18件、やったりしているんです。

本当に忙しいのでできる限り視察などはお断りしているのですが、今回こういう会を開いていただいたので、特別に、なるべくまとめて行く機会を作りたいと思っていますので、よかったらぜひ申し込んでいただければなと思います」

視察ツアーは渡航滞在費別で10万円だが、結果的に、ジャパンハート側にご負担をかけるのではないかという、約100名の参加希望者が集まった。

ミャンマーで聞こえた「日本のことをよろしく」

 続いて吉岡さんが再登壇。もう1つ伝えたいこととして、1995年にミャンマーを訪れたときのことを語った。戦後50年、戦争を経験した現地のお年寄りたちに教えてもらった、日本人が約20万人亡くなった場所で、慰霊碑を見ながら毎日考えたことについて、吉岡さんは話し始めた。

「彼らが僕に、ここでこうやって日本人が死んだとか、あそこから飛行機で落ちてきて、死んだんだよとか、戦闘で壁に刺さった実弾とか、全部教えてくれるわけです。

慰霊碑がたくさんあって、その慰霊碑を毎日毎日僕は見ていました。そこには帰れなかった18歳〜20歳の若い人たち、日本に子どもや奥さんを置いてきた人たちの名前がいっぱい書いてあるんです。

日本に帰りたかっただろうな、とか思いながら僕は毎日その前に立つんですね。

そのうちに、この20万人の亡くなった人、帰れなかった人たちは何を最後に望んだのだろうと思ったんですよ。この人たちの思いを、一つだけ言葉にできないかなと思いながら慰霊碑の前に毎日立ち続けたんです。

当時の日本はバブルが終わったばかりで、まだまだお金お金で、お金を持ってる奴が偉い、大きな企業に努めてる奴が偉いっていう時代。

とてもじゃないけど、その日本を作るために、この若い人たちが30万人この土地で生きて、20万人も死んで、そんな悲しい思いをしたのかと思って、僕は恥ずかしくなってきたんですね。

そういう思いを抱きながらその慰霊碑の前に立っていたときに、僕の中に言葉が一つだけ、落ちてきたんです。皆さんに今日、絶対に伝えようと思っていた言葉です。

それは、『日本のことをよろしく』だったんですよ。この言葉が僕の中にドーンって来たんだけど、今の日本を見せるのは、とてもじゃないけれど恥ずかしいと思ったんです。

ではどうやってこれからこの人たちに恥ずかしくない日本を作っていったらいいのかと思ったときに、若い人たちとともに次の時代を一緒に作っていきたいと思ったんです。彼らに恥ずかしくない日本を作る、その思いは今でもあるんです」

 オークションではなく、吉岡さんの講演会の権利を販売したところ、いくつもの手が挙がった。

 会場に集まった気鋭の経営者たちの会社には、これからの社会を創る若者たちが働いている。自分の人生の時間を何に使うかを問う吉岡さんの話を聞けば、おのずと仕事への向かい方や生き方を考え、やがて榊さんや西井さん、小林のようなリーダーになるかもしれない。

子どもたちの成長を支援する「ドリームトレイン」

 続いて「生まれてきて良かったと思える世界の実現」をヴィジョンとするジャパンハートの事業の1つ、Dream Train(ドリームトレイン)について、運営を担当する那須田 玲菜さんから活動紹介があった。

 Dream Trainはミャンマーにある児童養育施設。様々な理由により家族と一緒に過ごすことができない5歳から18歳までの子どもたちを養育し、教育支援と就労支援を行っている。設立当初は28名だったが、現在は116名の子どもたちが入所しており、卒業生も含めると累計356名に上るという。

 子どもたちはミャンマーの情勢に翻弄され避難民キャンプで暮らしていたり、ストリートチルドレンで、自分の正確な年齢もわからなかったりと様々な背景をもつが、たとえ幼くても自分で入所する決意という共通点を持つ。

 那須田さんに紹介されて、卒業生の一人、Nar Bo Khan(ナボーカン)さんが登壇。彼女は2011年、10歳のときに入所し勉強を開始。心臓に病気が見つかりカテーテルの手術を受けるという不運に見舞われ一浪しながらも大学に合格。現在は日本で資格を取り、介護の仕事に従事している。

「亡くなる前に家族と挨拶ができる日本の施設は素晴らしい」とナボーカンさん(写真右)

 続いて那須田さんは、2020年にドリームトレインを訪問した歌手の平原 綾香さんをステージに呼び込んだ。子どもたちはその時、平原さんの曲「おひさま~大切なあなたへ」を日本語で歌って歓迎し、平原さんはミャンマー語で歌を歌い、喜ばれたそうだ。

那須田さんとの軽快なトークで場を盛り上げていた平原さんだったが、子どもたちからの映像でまた来てね、と呼びかけられると思わず涙。「おひさま~大切なあなたへ」「Jupiter」を心を込めて歌うと、まるでジャパンハートの目指すものと呼応しているような歌詞に、今度は会場が涙を誘われた。

「ジャパン・ミャンマー・プエドー」等で3回ミャンマーを訪れており、特別な縁を感じているという平原さんは「平原綾香Jupiter基金」を2015年に設立、ジャパンハートに継続的な支援を続けている。

クロージングセレモニー

 クロージングセレモニーは吉岡 秀人さんとジャパンハート理事長で小児科医の吉岡 春菜さんに花束贈呈となった。お二人が会場に今日の場のお礼を伝えたあと、吉岡さんへ、西井さんが尊敬を込めた感謝とお祝いを伝え、花束をアレンジいただいたローランズの福寿 満希さんは、若い世代として期待に応えたいと意気込みを語った。

吉岡 春菜さん「20年前は一人でしたが、20年続けたらこんなにたくさんの皆さんと歩ませていただけるとは」
西井さん「これからも僕の星となり、応援してくれるみなさんの星となって、頑張ってください」
福寿さん「障害や持病を持ったスタッフたちに、今日があること、明日があることがどんなに幸せかをしっかり伝えたい。彼らへのサポートのあり方を変えるきっかけをいただいた」

 またたく間に時間が過ぎて、20周年記念のチャリティディナーは終幕した。

 最後は吉岡さんたちを先頭に、ジャパンハートの皆さんを拍手で送り出すセレモニーとなり、会場は再びスタンディングオベーションとなった。

▶️支援する(ジャパンハート)

 このイベントが終わって、心に残ったことは2つある。

 1つは、自分に大きな影響を与えてくれた、敬愛する人に恩返しのようなことができるのは、どんなに幸せなことだろうかということである。忙しい日々の中で今回の開催を決め、それを全力で盛り上げようとした小林はこの日、とても幸せそうに見えた。

 はじめこそ「吉岡さんの話を聞かせたい」という有無を言わせぬ企画だったかもしれないが、結果的には、共鳴しあう仲間たちとともに大きく心を揺り動かされ、行動が生まれる機会となったのである。

終了後に記念撮影するジャパンハートの皆さん

 もう1つは、経済合理性より何より、人として正しいことを求めようとするときに、私たちが心を打たれ、行動するということである。

 ICCオフィスで小規模に開催された前夜祭で、ミャンマーからこのパーティーのためにやってきた皆さんと話す機会があった。ミャンマーでは女性の医療従事者が多く、生涯働くのが一般的だという。

 医師として働くマチョーさんは、「とても優しい」吉岡さんの元で働いて日本語を覚え、今では1日15件の手術をこなす。日本に留学経験のあるソーソーさんはドリームトレインで働き、姉をジャパンハートに助けてもらったマヌエウさんは、外来全てを引き受ける看護師となった。エリートといってもいい彼女たちは、日本のNPO以外の選択肢もあっただろう。

写真左からマチョーさん、ソーソーさん、マヌエウさん。前夜祭にて

 吉岡さんに「やるべきと思ったからやったのか、それともやりたいからなのか」と聞いたところ、「やるべきと思っていたら続かないですよ」と答えた。そして、やりたいからやったけれど、最初は何の計画も立てなかったと答えた。貧しくて医療を受けられない人からお金は取れないとして始めた活動を、最初は変人と思われていたという。

 使命感の「やるべき」もあるのではと勝手に考えていたが、むしろ目の前にいる苦しむ人をどうにかしてあげたいという自分の心に素直に応えている。そのための苦労は、自分の心の葛藤よりたやすいのだろう。

 そんなに単純なことではないと思うが、純粋に心がやりたいことを、しかもいいことを貫く吉岡さんを応援したいと思うのは、私たちにとっても、気分がいいことである。無償の医療提供の規模が少しずつ拡大しているのは、吉岡さんの強い意思と、それに共感する人たちの良心が作り、育てているものである。

 思いを貫くことの尊さ、難しさを知っている若き起業家や経営者たちの心には、この夜、何が残っただろうか。聞いた話の本当の意味がわかるのは、何年もたった後かもしれないと小林は言ったが、ただ一人で誰もいない場所から始め、人の命と自分のできることに向き合い続けてきた吉岡さんの言葉が響かない人はいなかっただろう。

 彼ら・彼女ら一人ひとりもまた、自分が見つけたいいこと、自分が社会にできることを何とか形にしたくて、日々もがいているに違いないからである。ICCサミットは、そういう人たちが集まる場になっているのだ。

 パーティーが終了し、備品の撤収でエントランスへ向かったところ、吉岡さん夫妻がソファに沈むように座っているのを見た。慣れないことずくめの1日だっただろうに、出入りするこちらに気がつくたびに、腰を浮かせて挨拶してくださろうとする。あとで聞くところには、「本当にいい日だったね」と話していたそうである。

 ICCにとっても同様に本当にいい日であった。初めての取り組みではあったが、いつも熱心で、真剣なICCのコミュニティに新たな体験を提供しながら、ジャパンハートの皆さんとともに楽しく20周年を祝うことができた。そのうえICCの原点まで垣間見えるような時間となったからである。

 (終)

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編集チーム:小林 雅/浅郷 浩子/戸田 秀成

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