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ICC FUKUOKA 2024のセッション「大人の教養シリーズ 経営者になぜ「哲学」が必要か?」、全7回の④は、Poetics 山崎 はずむさんが、大規模言語モデルと同じ発想を持つ言語哲学が19世紀末にはあったと語ります。哲学者とのコラボに悩む石川 善樹さんに谷川 嘉浩さんは、哲学者には観察とインプットの時間が必要だと説明。話題は明治期の偉人にまで広がります!ぜひご覧ください!
ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に学び合い、交流します。次回ICCサミット KYOTO 2024は、2024年9月2日〜9月5日 京都市での開催を予定しております。参加登録は公式ページをご覧ください。
本セッションのオフィシャルサポーターは エッグフォワード です。
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【登壇者情報】
2024年2月19〜22日開催
ICC FUKUOKA 2024
Session 5D
大人の教養シリーズ
経営者になぜ「哲学」が必要か?
Supported by エッグフォワード
(スピーカー)
石川 善樹
公益財団法人Well-being for Planet Earth
代表理事
田中 安人
グリッド CEO / 吉野家 CMO
谷川 嘉浩
哲学者 / 京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師
山崎 はずむ
Poetics
代表取締役
(モデレーター)
嶋 浩一郎
博報堂 執行役員/博報堂ケトル クリエイティブディレクター・編集者
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立ち止まることは哲学が持つ機能
山崎 立ち止まることも、一つ大きな哲学が持っている機能です。
経営者の方だと、没頭し、熱中し、信じるところに向かって突き進まなくてはいけないし、スピードが大事だというふうになると思います。
ただ、最近自分も経営していて思うのは、ことビッグクエスチョンに対しては1回立ち止まることが重要だということで、人工知能の領域では結構それでミスったことがあるなと思っています。
例えば、言語とは何かと本気で問うていたら、大規模言語モデル自体のモデルはもっともっと早くできたはずだというのが、僕の個人的な関心としてあります。
これは何を言っているかというと、コンピュータサイエンティストが考えていた自然言語処理においては、意味の最小単位は「単語」でしたが、哲学の中では単語単体では意味を成さず、「文」が最小単位だとしていました。
あとは、実は文法なんて意味がなくて、大量の経験のほうが実は言語習得に意味があるんだみたいなことも、言語哲学の領域で言われています(※) 。
▶編集注:ドナルド・デイヴィッドソン(1917~2003)が「墓碑銘のすてきな乱れ(原題:A Nice Derangement of Epitaphs)」(1986年)で発表した。
これはもう全く大規模言語モデルと同じ発想です。
大量のデータを学習させて別に文法なんか無視しても結構、単語をベクトル空間上において学ばせる自然言語処理の方法なんてもう結構、それが「Transformer(※) 」にあると思います。
▶編集注:Transformerは、2017年にGoogleの研究者らが発表した深層学習モデル。
Transformer が出てきたのは2017年ですが、これは言語哲学の世界では19世紀末ぐらいにあるので、もしコンピュータサイエンティスト側と人文側がそこで言語とは何かという会話ができていたら、コンピュテーションやGPUの問題は置いて、理論としての大規模言語モデルは多分100年早く作れたよねみたいなところがあって、結構他でもこういう問題はあります。
例えば僕らは音から人の感情を解析する人工知能を作っていましたが、ここでも問題になったのは、ビッグクエスチョンとしての「感情とは何か?」を問わなかったことで、これによって、そもそも計測しているそれは感情なのかみたいな形で、1回研究が中座したのです。
見切り発車で作っていくことも、例えばSaaSだったら非常に大事だと思いますが、こと根本的な技術革新を生む場合には一度立ち止まったら、もしかしたら早かったかなというところは、AIの分野ではなんとなく感じるところがあります。
そういう瞬間にはもしかしたら、経営においても意味があるかもしれないですが、日常で立ち止まっていてはダメだよねというのも、すごく同意する形です。
嶋 フランス憲法レベル、AIレベルだと立ち止まって考えよう?
山崎 ビッグクエスチョンに関しては、やはり立ち止まったほうがいいと思います。
言語とは何かみたいなことを置きざりにしてしまうと弊害が起きるので、それがゆえに、先ほどの話ではないですが、哲学者が降りてきて、コンピュータサイエンティストや産業界の人と一緒に話をしていたら、「いや、多分それは言語ではないと思うよ」と言って解決したことは結構ありそうだなという見立てはありますね。
哲学者には観察とインプットの時間が必要
石川 例えば僕の領域のWell-beingでいくと、Well-beingは要は主観的に自分の状態をどう評価しているかという、主観的な評価です。
ここからは口なのですが、哲学者の方に「主観的な評価とは何か?」という、それは多分ビッグクエスチョンですね、それを聞いても何にも答えが返ってこなくて、そうすると会話が進まないのです。
「評価とは何か」みたいな哲学的な歴史は教えてくれるのですが、それに基づくと、今のこの主観的な評価方法はどう改善したらいいですかみたいな問いに、答えはくれなくてもいいのですが、指針もくれないことがあって、どうコラボしたらいいのだろうかと思います。
谷川 具体的に言うと、哲学者にインタビューをしにいくのではなく、自分たちのしている会話だったり、会議だったりに、とりあえずしばらく、地蔵のように置いておくことから始めるのはいいのかもしれないです。
つまり、観察やインプットのために眺める瞬間を与えてあげると、もうちょっと上手く働きそうな気がしますね。
何と言いますか、あなたの引き出しを開けてくださいと言われても、何を言えばいいかわからないから、「とりあえずわからないなりに解説してみました」という形になるんじゃないですかね。
それこそ自分の業界の外のことをあまり知らないから、相手のニーズを察知しづらい。だから、自分の思いつくものを喋るしかない。
でも、そこで何が起こっていて、どういう関心があって、どういう困りごとがあってということを、会話の中から察知するデータソースみたいなものをあげると、それを整理したり、相対化したり、本当に関連しそうな知見を紹介したりすることはできるはずです。
だから、素材を学習しないと動かない。
石川 人工知能と一緒ですね。
谷川 そうですね。良い教師データをあげないといけません(笑)。
東洋哲学の不思議さ
田中 先ほどの話(前Part参照)は、西洋哲学は外にあって、東洋哲学は中にあるみたいな解釈ですか?
石川 もう、だってわかってしまっているわけですものね、東洋は。
谷川 自分の身体か何かが無意識に知っているのですよね、大体。
石川 ブッダが悟ったなりという。
田中 西洋は積み上げているけれど、東洋は積み上げではないということなんですね。
石川 いきなり頂点から見下ろしているわけですよね。
谷川 いつの間にか山の上にいるのですよね。
石川 いつの間にかいますね(笑)
谷川 西洋哲学の歴史は、みんな多分自分が真理を見つけたいと思って、これが最終的な答えですと思って頑張って言うのですが、「いや、なんか違うかも」とか、同時代に「いや、違うでしょう」とかたくさんツッコまれたりして、その議論のネットワークごと残っているのです。
でも不思議なことに、日本とか東アジアではその要素は薄いんですよね。
なぜかというのはちょっとなかなか難しいのですが、一つはあまりアーカイブする習慣や価値観自体がなかった、あまり発達してこなかったというのが大きい気はしますね。
あとは、振り返ると中国の諸子百家(※春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称)の時代などは、お互いの議論を位置づけ合う時期はあったとは思いますが、諸子百家の後、秦の始皇帝が出てきて何をやったかというと焚書ですよね。中国も歴史書の文化は厚いですけど、現王朝を正当化する目的なので、思想は一つでいい。
結局アーカイブに対する感性がないから、お互いに議論で位置づけ合ってバチバチに議論するみたいな時期があっても、不思議なことにそれが残らないのです。
それも一つ、“答えをなぜか知っている東洋哲学”みたいな構図が生まれた原因かなとは思いますね。
山崎 あと、日本の場合は、やはり実学中心だったのは非常に大きいと思っています。
福澤 諭吉が言う『学問のすゝめ』の学問の対象は、いわゆるリベラルアーツでは全くなくて、ほぼほぼ商業用途の実学です。
▶️デジタルで読む福澤諭吉 學問のすゝめ. 初編(慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション)
いわゆるリベラルアーツはもともと、奴隷ではない状態をやるための「自由学芸」みたいなものがヨーロッパからスタートして、その中に哲学みたいなものが入っていましたが、日本ではあまりそもそもそういう観念がなくて、寺子屋などでやられていたのは結構実践的なものが多かったのです。
あとは、理念的なところとしての朱子学や儒教だったりが多かったため、近代以降にそれらをインストールした時にどう立ち向かっていいか、あまりよくわからないなみたいなところはあって、それが積み重なっていないという面はあるかもしれないですね。
翻訳語を無数に生んだ明治期
谷川 でも、そろそろいいんじゃないかという気はして、今、明治期の話をしてくださいましたが、明治期に西 周(1829~1897)という人が、無数の翻訳語を作りました。
その代表格で、皆さんにとって多分ピンとくるであろうものが、「取引」や「社会」という言葉です。
これが今存在しないとしたら、ちょっとゾッとするくらい、どういう世界や社会のあり方をしていたかが想像できないぐらいですよね。
だから、新しい言葉を生み出すとか、その言葉がどういう振る舞いをするんだろうということが、やはり哲学者の仕事だったんだなと振り返っても思うのですよね。
嶋 先ほどの想像力の話(前Part参照)で、哲学者が先に名付けるのか、世の中の実態がそうなって、後から批評として想像力とはこういうものだよねと構築するのかという話がありましたが、ある意味加速させる力を持っているということですよね。
谷川 そうですね。
石川 明治時代、西 周さんとか、ああいう方たちは自身で哲学者と言っていたのですか?
谷川 少なくとも彼自身は、イギリスなどの哲学書を読んだりしていましたね。
石川 それは漢字学者として、西洋の哲学書を読んでいたのですか?
谷川 多分、学問ジャンルの区分けが私たちほど、そもそも時代的にもはっきりしていなかったし、はっきりしていたとしても、学び始めの人はジャンル分けを気にせずに学んでいたので、「私は哲学者だ」と思いながら哲学していたかどうかは、はっきり言ってよくわからないです。
石川 わからないということですよね。
谷川 まあ、でも、それは別にそれでいいんじゃないかなと思っています。
私がこういうところに来ている理由にも関わっていますが、「哲学って、こうだよね」「だよねーわかる」みたいに、業界内で哲学のイメージを確認し合うみたいなことだけやっていても仕方がない。ジャンルとしての共通性はもちろん必要ですが、「哲学っぽいもの」の輪郭をどれだけ正確になぞりあえるかというゲームには意味がない。自家中毒的な感じがして、ちょっと気持ち悪いなと思います。
議論に必要だったら、それが社会学に該当しようが、経営学に該当しようが、心理学に該当しようが、文学に該当しようが、学んで使うべきじゃないですか。
それが多分「プラグマティック」ということだと思いますが、「いや、でもそれは哲学のジャンルに該当しないから、その文献は読みません。その研究手法は学びません」というのは、すごく変な話だなと思っています。
私はノンジャンルに学んできたので、西 周の気持ちはわかりますね。
いや、本人に聞いたわけじゃないので(ちゃんとわかっているのか)わからないですけど(笑)。
数多存在する「○○の哲学」
山崎 現代哲学のずるくて良いところって、「○○の哲学」とたくさん言えることで、信じられないかもしれないですが、「数学の哲学」とか、「生物学の哲学」とか、「心理学の哲学」という分野が本当に存在しているのです。
私自身は「心の哲学」や「言語哲学」と言われるものを研究してきましたが、したがってあらゆる対象を実は扱いうるところも哲学の一つ良いところです。
それは何かのスペシャリティというよりは議論の枠組みを提供するので、全部に対して応用しうるというところで言うと、たまたま今はビジネスでやられていないケースが多いかもしれないですが、「ビジネスの哲学」は全然ありうるのです。
石川 それはどれくらいまで抽象化されますか?
保険会社は、保険会社の保険をする再保険会社があって、再保険会社の保険をする再々保険会社まであります。
哲学は、「『○○の哲学』の哲学」の哲学みたいな、どれくらいまで抽象度が上がるのですか?
山崎 (笑)
谷川 それは不思議なことに、あるのですよね。
石川 ある?
谷川 例えば、「哲学」があって、「メタ哲学」というのがあって、「メタメタ哲学」もあるのです。
石川 「メタメタ哲学」?
谷川 日本語で探せるのだと、「倫理学」「メタ倫理学」「メタメタ倫理学」があります。
「メタ」は、1個レイヤーが上ということですね。
でも、あまり抽象度を上げすぎると、何をやっているのかわからなくなってくるというか(笑)、現実との接点が失われすぎるので、あまり遡りすぎるのは良くないかなという気がしますけれど。
石川 (笑)
(続)
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編集チーム:小林 雅/小林 弘美/浅郷 浩子/戸田 秀成