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3. なぜ哲学者は自分の世界から出てこないのか?

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ICC FUKUOKA 2024のセッション「大人の教養シリーズ 経営者になぜ「哲学」が必要か?」、全7回の③は、哲学者との会話が上手く成立しないという石川 善樹さんが、メタ認知しすぎることによる弊害が哲学で生まれていないか、哲学者の谷川 嘉浩さんに問います。そして話題は、西洋哲学と東洋哲学の違いへ。ぜひご覧ください!

ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に学び合い、交流します。次回ICCサミット KYOTO 2024は、2024年9月2日〜9月5日 京都市での開催を予定しております。参加登録は公式ページをご覧ください。

本セッションのオフィシャルサポーターは エッグフォワード です。


【登壇者情報】
2024年2月19〜22日開催
ICC FUKUOKA 2024
Session 5D
大人の教養シリーズ
経営者になぜ「哲学」が必要か?
Supported by エッグフォワード

(スピーカー)

石川 善樹
公益財団法人Well-being for Planet Earth
代表理事

田中 安人
グリッド CEO / 吉野家 CMO

谷川 嘉浩
哲学者 / 京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師

山崎 はずむ
Poetics
代表取締役

(モデレーター)

嶋 浩一郎
博報堂 執行役員/博報堂ケトル クリエイティブディレクター・編集者


哲学者は自分の世界から出てこない?

石川 僕の限られた経験ですが、哲学者と会話が上手くいったことがないです。

(会場笑)

嶋 今日はじゃあ、大実験ですね。

石川 でも、なんで哲学者という人と、うまく対話ができないのか、自分でも解明はできていません。

ただその中でもいえるのは、山崎さんがかなり特殊だということす。なぜなら、こっちの世界に興味を持ってくれているから。

僕の本当に限られた経験ですが、僕が知っている哲学者は自分の世界から決して出てきません。

(会場笑)

山崎 それは本当にそうで、僕もそれが嫌でゴールデン街に行っていたのです。

石川 (笑)。

谷川 そういう経緯なのですね。

山崎 そうしたら、シラフでないから全然言葉が通じないという別の問題が発生したのですけれど。

谷川 なるほど、言葉の使い方が一貫しなかったりして。

山崎 そうなんです。

でも本当に(石川さんの)おっしゃる通りで、象牙の塔(※) から降りてこない問題はあって、谷川先生が降りていらっしゃっているところが、それだけで尊いなと思います。

▶編集注:象牙の塔とは、自ら望んで俗世間から離れ、主に精神的で難解な探求を行う場所の隠喩(Wikipediaより)

まず興味ないですよね、そのビジネスに。

石川 ICCサミットに哲学者が来るのは初めてじゃないですか。

谷川 そうなんですかね? サミットの方はわからないですが、私は呼ばれたらすぐ出かけるので、私の塔だけ低いのかもしれません。

山崎 いや本当に、僕がビジネスに降りた瞬間に、研究室の人から、もうあいつは転向したぐらいの目で見られてもう散々でしたけど、それぐらい勝手に嫌われている領域ですが、でも実はそんなことないよねというか。

でも、それは日本が特殊だと思っています。

金銭に対する考え方がちょっと欧米と違っていて、アメリカとかの場合だと、逆にビジネスの領域に行った時に僕のバックグラウンドは哲学だと言ったりすると、非常に興味を持ってくれます。

日本だと、「はっ?」みたいな、今日もスタートアップ・カタパルトに出させていただきましたが、哲学者のスライドを使うとポカンみたいな、「誰だよ、ウィトゲンシュタイン(※ウィーン出身の哲学者)って」みたいな感じになります。

商談解析AI「Jamroll」から、言語哲学×LLMでAI APIプラットフォームを目指す「Poetics」(ICC FUKUOKA 2024)

でもそこは本当にそうで、逆に降りていかなければいけないというか、彼らからすると降りるメリットも特にないのですが、実際降りてきてくれると、実は色々開けてくることはあるのではないかと思っています。

状況を俯瞰しすぎることの弊害

石川 それこそ「メタ認知」とおっしゃるのですが、例えば資本主義を批判している哲学者がおっしゃっている「資本主義」は、えらい浅い理解だなみたいな、つまり世の中のことをメタ認知しすぎてしまって、正しく捉えきれていないことが結構発生しているのではないかと思います。

嶋 解像度がぼやけすぎてしまっている?

石川 ぼやけすぎてしまっていて、資本主義だけではないですが、世の中で起きている、例えば政治の批判もそうですが、具体的に政治をちゃんと勉強しているかというと多分していなくて、引きすぎることによる弊害が哲学で生まれていないですかね。

谷川 それはおっしゃるとおりで、でも哲学の歴史を振り返ると、2500年くらい前にアリストテレスという人がいて、議論に応じた解像度があるよと言っています。

彼は、例えば倫理、人の生き方、どういう生き方が良い生き方なのかを考えるとき、厳密さを重視しすぎるとまずいことになるよねという話をしています。

抽象度を上げすぎるのも良くない、厳密さを追求しすぎるのも良くない、捨てるのも良くない、このバランスを取りながらやっていくことが必要なんだよみたいなことを言っています。

だからある意味では、(石川さんがおっしゃった)そういう人は「哲学者」とは言えないのかもしれない。状況とか対象とか目的に応じた抽象度や厳密さが使い分けられなくなってしまっているわけですから。

別の仕方でいえば、哲学者が何か状況を俯瞰することができても、自分のことを俯瞰できるかどうかはまた別ということかもしれないですね。

石川 常に俯瞰していると疲れないですか?

例えば、「今日は雨で天気が良くないね」みたいな話をしたときに、「雨が降ると天気が良くないのか」みたいな。

「雨が降ると、ちゃんとダムに水が溜まるぞ」とか。

谷川 良いこともあるじゃないかと。

石川 「悪いってなんだ?」みたいなことをずーっと繰り返していくと、人と話にならないじゃないですか(笑)。

「あなたは『悪い』って、どういう意味でおっしゃっていますか?」みたいな。

谷川 それはでもグッドポイントで、何でもかんでも疑うのは、それは全然哲学的ではないと思います。

疑っているふりですよね。

石川 ソクラテスのような人がいて、「あなた、それ、どういう意味で言っていますか?」みたいに問われ続けると、本当にややこしくて話にならないだろうと思うのです。

どの辺りが、バランスが良いですかね?

谷川 先ほど名前を出してくださった「プラグマティズム」という哲学のジャンルのうちの1人に、チャールズ・サンダース・パース(1839~1914)がいます。

パースは、ダウト(疑い)の意味について、私たちは常に疑えとか、常識を疑えとか、日常で色々なことを言われるけれど、そこでやっているのは実際には「疑ったふり」ではないかみたいな話をしています。

本当に疑うのは自分の感情や関心などが巻き込まれているときで、そうでないと、それは疑いとは言えないのではないですかという話をしていますね。ちゃんとバランスのよい俯瞰ができていると、この程度の穏健さに落ち着くんだと思います。疑いや俯瞰を振り回すのは、それを使いこなせているのとは違いますから。

だから、何でもかんでも疑う人がいたら、「ああ、そういう時期なんですね」「中二病的な時期なんですね」という感じかなと思いますけどね(笑)。

自分の関心がちゃんと紐づいた問いを持てるかどうか、実質を伴った疑いを持てるかどうかも、実は哲学にとってはすごく大事なことなのかなと思います。

哲学者がとらえるスパンは長い

石川 多分ICCサミットに来ている人たちは、何か物事を変えようとしている人たちで、哲学者は本当の意味で言うと変える気はない気がします。語りたい人たちだから。

 批評か起業か(笑)。

石川 そう。批評家ですよね。

谷川 (笑)

石川 語ることが目的の人と、変えることが目的の人は、どうしたら対話が成立しますか?

谷川 お互いに大人として相対することができるなら、対話は可能だと思いますよ。ただ、この答えは面白くないので、共通点もあるという返しをさせてください。

哲学者も文化を変え、社会を変えるという目的を持っているんです。ただ、目線は明らかに長期的ですが。

例えば私たちは想像力、イマジネーションが大事だと、みんな常識のように共有していると思います。たぶん、この考えにあえて反対する人はいないですよね。

でも、少なくとも西洋哲学の歴史でいうと、想像力は野蛮なものなのです。

想像力があると、人の関心があちこちにいって大事なことに集中できないし、入力が同じなのに出力が毎回違うのが想像力なので頼りにならない。こんな危険な能力なんとかしないと!というふうに考えられていた。

でも、1900年くらいから徐々に潮目が変わってきて、200年くらいかけて、「想像力は大事」という常識が成立し、今では日本にも根付いています。

こういう価値観の変化にコミットしたいと思う哲学者はそれなりにいると思います。だから長期的に、ちょっと皆さんとは変える時間のスパンが違いますけれど(笑)、価値観を変えたいとは思っているのかもしれないですね。

石川 哲学で想像力が大事と認められたから、世の中の人が想像力を発揮しているわけでもない気がするのですよね。

常に時代に遅れて遅れてついてきている。

谷川 ああ、でも、首尾一貫した理論のようなものを構築しないと、それこそ言葉の意味がみんな「想像力」という言葉を使っていても、一定しない可能性がありますよね。理論のバックアップは、常に必要だと思います。

例えばイギリスやフランスで文学者や哲学者たちが、想像力の理論を構築しながら文章を書くということをやったから、常識として「想像力が大事」が次第に定着していったということかなと思いますね。

石川 西洋だと、例えばフランスでサルコジ大統領が哲学者を招いたのはなんとなく理由がわかります(Part.1参照)。

フランスは憲法を改正するときの判断は、改正していいのかどうか、最終的には哲学者に委ねられているのです。

結構リアルな世界に哲学者が関わっているなと思いますが、日本だと、経営や政治のリアルな判断に関わり続けてきたのは、歴史的にみるとお坊さんじゃないですか(笑)。

谷川 そうですね、フランスは「バカロレア」という哲学の試験もありますからね。

山崎 センター試験みたいな試験で、哲学は絶対みんなが受けなければいけないですからね。

フランスの高校卒業試験は、なぜ哲学が必修なのか? 社会で生きる「武器」としての哲学(ブックバン)

西洋哲学において哲学とは「欠如」

石川 東洋哲学と西洋哲学を、どういうふうに僕らは捉えたらいいですか?

谷川 プラトンは「フィロソフィア」という「フィロソフィー」の語源にあたる言葉を流行らせたのですが、そのニュアンスを思い浮かべるといいかもしれない。「哲学」とは「知を愛する」という意味だみたいなことがWikipedia(哲学)レベルでも載っています。

「知を愛する」ということは、知は手元にない。求めているということは足りていなかったり、不足していたりします。

つまり、西洋哲学において、哲学というのは基本的に「欠如」や「不在」に駆動されているんです。

もっともっと知らないといけないとか、もっともっと自分のわからなさに気づかないといけないというモチベーションがあります。神という要素を代入しても似たような話になるので、ざっくりそういうイメージでいいと思います。

石川 そうなんです、それがまさに僕の持つイメージで、西洋哲学の哲学者は、真理なのか愛なのか、ずっと何かを求めています。

谷川 はい。ずっと答えが動き続けてしまうんです。

石川 だから、優柔不断ですごくもじもじしているように見えるのです。

谷川 (笑)。

石川 でも東洋哲学は、いきなり真理を悟った人が、いきなりゴール地点にいますよね(笑)。

考えるな、悟れ。東洋哲学の「身もふたもない」神髄に迫る入門書(本がすき。)

そういう人と相談するのは安心感がある気がするのですよね。

谷川 確かに。山崎さん、どうですか?

(続)

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編集チーム:小林 雅/小林 弘美/浅郷 浩子/戸田 秀成

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