自分にとってカッコいい生き方とは何か? – 【ICC】INDUSTRY CO-CREATION

自分にとってカッコいい生き方とは何か?

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「僕は、判断基準にはレイヤーがあると思っていて、一番下が損得だと思っています。損得のジャッジメントがあって、その次に正誤=合っているか間違っているかのジャッジがあって、更にもう少し上に行くと善悪があると思うんですけれど、僕、一番上は美醜だと思っているんですよ。カッコいいか美しいか。『自分にとってカッコいいんだっけ?』という判断基準で生きている限りにおいては、どんな法律だろうが倫理だろうが大体変なことにはならなくて、それを世の中のルールと合わせていって正誤で判断しようとすると、それは外の基準なので苦しくなってくる。「それをやっている自分はカッコいいの?」という美醜の問題で完全に自分事化してしまうと、大体、他の人を傷つけることも随分減るし、自分の中でもすごく楽になると思います。

「生きるとは何か? 働く喜びとは何か?」をテーマに様々な経験をした3名の方をお迎えし、深く議論しました。特別対談(その2)の「自分にとってカッコいい生き方とは何か?」 を是非ご覧ください。

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登壇者情報
2016年3月24日開催
ICCカンファレンス TOKYO 2016
Session 5E 特別対談「生きるとは何か? 働く喜びとは?」

(スピーカー)
平栗 遵宜 freee株式会社 執行役員開発本部長
南 章行  株式会社ココナラ 代表取締役 
水島 淳  西村あさひ法律事務所 パートナー

その1はこちらをご覧ください:働く喜びやモチベーションとは何か?


職業選択の「軸」は何か?

水島 その経験があったので、「燃える」「燃えない」が分かりやすくなっているというか、それをいつも思い出すというかね。

どんな仕事でも社会に貢献してるじゃないですか。だから選択肢はいろいろあると思うんですけれど、社会に還元できるのか、だけじゃなくて、自分的に目立てて面白いか、それで燃えるのかという基準で考えて、それで今までの人生の選択肢を取ってきているような気がします。逆に、できるできない、上手い下手、それから、崇高な理念みたいなのは本当に必要なのかというのはよく分からないです。

それでもがむしゃらにやる、できなくてもやる。嫌な事があってもやり続けたいと思うのってなかなか普通じゃないできじゃないですか。特に自分は怠惰なところがあるので余計に。

だからそういう意味ではそういうプレッシャーみたいなのがモチベーションになっているんじゃないかなと思いますね。

 そうですね、僕もすごく似た感覚を持っています。はっきり言って、僕も何の苦労もしていないんですよ。

経営者になると、いつか本を出すかもしれないからということで青田買い的にいろいろな出版社の方が来られるんです。

僕の人生や考えについて話すと面白いと言っていただけるのですが、何か挫折の経験はないですかと言われて(笑)。

やはり本が売れるためには何かを乗り越えて成功した経験があったほうがいいのですが、順風満帆なんですよね、挫折したことがないと言うと、残念な顔をして帰って行かれるんですよね。

僕の家は金持ちなわけでも何でもなかったですし、傍から見たら苦労してる家なのかもしれないですけれど、親への反抗期もなかったですし、すごく恵まれてハッピーな性格で生きてきたので、僕も「もらってる感」をすごく持っていて、唯一違うなと思ったのが、水島さんのほうが、社会に返すとか、お礼しないとというようなパブリックマインドが強めなんだなということです。

その若干のパブリックマインドの違いが職業選択で弁護士とか、少し公共性の強いところに向かったんだなという印象を受けました。

僕の場合は、返すというよりも、僕みたいに前向きにハッピーに生きれたらみんな幸せになれるのになと素直に思っていて、じゃあその違いって何だろう、どういうきっかけを提供したら埋めれるんだろうという発想です。

僕は別に社会貢献が大好きなわけではないんですよ。どんなNPOでも全力応援ではないんんですよ。

その中でもたまたま僕の好きなテーマが、生きる力獲得支援だったんですけれど、それも別に貧乏な人に何とか仕事をとかそういうことではなくて、何かにチャレンジしてそこで失敗も成功も受け入れながら強くなって、こうやって前向きに生きたら俺生きれるんだという気にさせてあげたい、ただそれだけなんですよね。

僕はその「もらってる感」が個人に向かっていて、みんなの心を変えるきっかけを与えられるものを作れないかなという気持ちが、その後ずっとあったような気がしますね。僕は、公共性とか倫理とかルールとかが嫌いなんですよ。

司会 今伺ったお話と、冒頭におっしゃっていた、震災で受けた心境の変化のようなものは、また少し意味合いが違うのかなと思いますが。

 そうですね。それは全然違う話ですね。震災はむしろ背中を押してくれたというだけの話です。

僕、36歳で会社を辞めたんですけれど、企業再生ファンドって、正直なところ年収もそこそこいいわけですよ。

そこを捨てて、成功するかどうかも分からない無収入の状態になるというのは、結構勇気がいるじゃないですか。

そこで背中を押し切れたのは東日本大震災があったからかなと思っています。会社のアドバンテッジ・パートナーズのメンバーとしばらくボランティアに行って、そこで本当に全てが流されているのを見て、本当に昨日まで生きていた人が一瞬で死ぬんだなというのを目の当たりにしました。

ある意味、死なないだけで幸せであるという気持ちになったんですよ。

じゃあ会社辞めることにリスクはあるのかな、年収がゼロになることかなと。仮に僕起業に失敗しても、恥ずかしい思いはすると思うんですけれど、「で、どうした?」という気になれたんですよね。

昔だったらちょっと恥ずかしいなとか、生活レベルが三分の一に落ちるのは嫌だなとか、そういうことが気になっていたかもしれない僕が、震災を見た瞬間に、死にはしないし、失敗しても就職できるでしょうと思ったんです。

起業のリスクの正体って、本当は失敗することの恥ずかしさだけなんじゃないのと思いました。

みんなはそれを言い換えて、もっともらしいことを言っているだけなんじゃないのと、一気にそちら側に行けたというのは震災がきっかけでしたね。

平栗 僕も、東日本大震災は、自分の中で結構重要なキーワードです。僕は大阪にいました。

水島 いました、僕も。

平栗 阪神大震災と東日本大震災と2回経験して、もう何でもかんでもなくなるものだし、生きているだけで大丈夫だと思うようになりました。

そうすると、死ぬ時にどうやって死ぬのが一番大事なのかなと考えたりします。幸せな死に方というのは、いい記憶があって周りにそれを共有できてる家族や友人がいるということだと思います。

自分の周りの人間関係が最も大事で、最近は、一緒に働いている人と、家族と子供とを僕が何とかして幸せにしたいという思いが一番強いです。

 死ぬ生きるでいくと、今僕は生きているわけですけど、それを僕が生まれる前に世の中ってあったことになっているじゃないですか。

世界が。でも別に僕はそれを確認していないし知らないですよね。地球の歴史が、日本の歴史がどうだったって本で読んで知っているっていうだけだけれど、幻想かもしれないじゃないですか。

僕が死んだ後の世の中ってどうなるか分からないし、信じられるのは自分が存在しているってその感覚だけで、今こうやってみんなと喋っているのは全部幻想かもしれないじゃないですか。

最終的には、社会のためとかいうのはもちろん言っているんですけど、更にそれをハイコンセプトにすると、社会のために何かやっているっていう自分自身が幸せであるっていうそこにしかたどり着かないので、如何に自分を幸せにするかというそれだけなんですよね。

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コントロールできるのは自分だけなので、究極的には、何をやると僕が一番幸せになるのかということが一番上の命題です。

僕が生きている世の中と、生きていない世の中があるとしたら、その差分が僕の価値なので、そこを最大化したいという発想をしているから、みんなを幸せにしたいっていうよりも、差分を見出したいんですよ。

だから、僕がいることで、僕を好きになる人もいると思うんですけれど、僕がいることでああなりたくないと別に振れる人もいると思っていて、それでいいと思っているんですよ。

それはその人の選んだ道だから。僕の色に染めたいわけでもなんでもないんです。ただ、影響を与えたいんですよ。

僕がいる世界といない世界の差分、プラスとかマイナスではなくて、この絶対値を大きくできたら、僕が生きた意味があるんだろうなという自己満足です。

そういう世界観で捉えているので、一部の人からぐっとお金を取れるビジネスをやって儲けたいとか、そういう発想でもありません。

僕、あるいは僕が出したプロダクトでもいいし、何か間接的な影響や、僕を起点にした何かによって、その人の人生のベクトルがちょっとだけ変わって、その積み上げがどれくらいできるかなというのを想像しながらニヤニヤしてるというのがいいですね。

ソーシャルインパクトと表現していいのかどうか分からないですけれども、そういう価値観で生きていますね。

水島 モチベーションが、つまるところ自己満足…

 自己満足ですよ。

水島 仰るとおりですよね。それで頑張れるんだったらそれでいいじゃんというところがあるのかなっていう。

 最終的には自己満足だよね、と思える人の方が幸せになれると思っています。

「べき論」で捉える人は、生きていてつらくなるんじゃないかな。こうすべきとか、人はこう振舞うべきというのは、外で作った基準の中で生きていることになるじゃないですか。

気持ちが辛い人と辛くない人とでいろいろな違いがあると思うんですけれど、一つは、コントローラブルなものに目を向けるのか、アンコントローラブルなものに目を向けるのかで、全く違ってくると思っています。

僕はとにかくコントローラブルなものしか気にしないんですよ。他人や環境ってそうそう変えられないものです。

相手のことをこいつ嫌な奴だなって思った時に、わっと怒って向こうを納得させてもイライラが残るだけなんですけれど、俺が悪かったかもと思うとすっと楽になります。

自分のようにコントローラブルなものに目を向けるという発想を持っているだけで、人は大体幸せに生きれるんじゃないかなと思っています。いい意味での自己中心的な感覚ですね。

「それをやっている自分はカッコいいの?」と問いかける

先程ルールや倫理が嫌いと言っていたのは、基準をそこに置くわけではないということです。

僕は、判断基準にはレイヤーがあると思っていて、一番下が損得だと思っています。損得のジャッジメントがあって、その次に正誤=合っているか間違っているかのジャッジがあって、更にもう少し上に行くと善悪があると思うんですけれど、僕、一番上は美醜だと思っているんですよ。

カッコいいか美しいか。「自分にとってカッコいいんだっけ?」という判断基準で生きている限りにおいては、どんな法律だろうが倫理だろうが大体変なことにはならなくて、それを世の中のルールと合わせていって正誤で判断しようとすると、それは外の基準なので苦しくなってくる。

「それをやっている自分はカッコいいの?」という美醜の問題で完全に自分事化してしまうと、大体、他の人を傷つけることも随分減るし、自分の中でもすごく楽になると思います。

そういう、いろいろな物事を自分事化して捉える人を増やしたいというモチベーションが、結構ありますね。

「それって正しいの?」「どっちが得なの?」という質問は結構難しいし、正義なんて人の数だけあると思うので、最後の最後には極めて主観的に、「それをやっている自分はカッコいいの?」と問いかけるのです。

平栗 それはあくまで最後に困った時にですか?

 常に全てのジャッジメントにおいてカッコいい方を選んでいけば、幸せに生きれると思っています。

外面内面含めてカッコいい、美しい。自分が人を助けるのが美しいと思っているならやればいいという話で、それが正しいからやるんじゃないんですよ。

そうしてる自分が好きとか、そうしてる自分が美しいと思ったらやればいいし、それが偽善に感じるというんだったらやらない方がいいし。

正しいといわれているからやる、でも気持ちを押し殺して、とかそういう感情は自分を不幸にすると思っています。

例えばうちの子供同士が喧嘩するわけですよ。「わー」とやった時に、兄貴が妹を殴ったりするわけなんですよ。

何で喧嘩してるんだよって聞くと、妹が悪いと。あいつがこうこうしたと。確かにどちらが正しい間違っているかという議論はできるんだけれども、「どっちが正しいの?」と言うと、俺だ私だって言うんだけれども、「この場合、兄貴としてどう振舞うのがカッコいいと思う?」と聞くと、カッコいいのはここでこうこうこう言って許してあげて、何々するのがカッコいいと思うって。

「じゃあカッコよく生きようよ」と「そうするのが正しい」と言うと、「いや、だって」となるんだけれど、あなたの心の声で、「カッコいい生き方はどっち?って聞くと、意外と、倫理的にもいろんな意味で正しい方向に行くと思うんですよ。

ちょっと今、正しいという言葉を使っちゃったけど(笑)。

水島 美醜というとあれですけど、それぞれの人が積み上げてきたこれまでの経験の中で、自分はこうありたいっていうのがあって、それぞれのスタイルで、そこが一番納得感があるよねっていう感じですよね。多分ね。

 心の声に従っていて、やって気持ちがいいわけですよね。ココナラ自体が、人々が自分らしく生きることを促しているんですけれど、それを精神的に解釈すると、やっぱり、自分がカッコいい美しいと思える生き方をしている状態をつくる、ということなのかもしれません。

平栗 美しさの価値がある程度共通していたら…

 共通なんてしてなくていいんですよ。

平栗 いいんですか?

 共通なんてしてなくていいんですよ。その人にとって美しいか違うかでいいんですよ。

でもそこで変に客観性を求めて、誰かが決めた正しさみたいなのを議論すると、余計ややこしくなるけれど、自分がこう生きることで美しいんだとかカッコいいんだというところに寄り添えれば、そんなに変なことにはならないし、少なくともその人は心穏やかにハッピーになるじゃないですか。

正誤で判断すると、相手が間違っててこっちが正しいというような怒りが、結果的に出てきたりすることもありますよね。

でも自分がカッコよく生きていると思っていれば、相手に対して怒りなんて出ないし。だから基準が違ってもいいんですよ。

みんながみんな、勝手にハッピーに生きているから、そこでは争いも起きないし。だからずれててもいいんです。ただただ自分をハッピーにさえすればいいっていう、そういう感覚ですよね。

司会 水島さんが仰ってた、目立ちたいという話とも結構通じるものがあるかなと思ったんですね。目立ちたいっていうのは、やっぱりカッコよく見せたいっていうことと結構似てるのかなと。そこが何か共感できるところあります?

水島 あります。そのラベルは美醜なのか正義なのか正誤なのかっていうのはあると思うんですけれど、多分それぞれの人が自分の人生で積み上げていたものが価値観になり、倫理観になり、カッコいいカッコよくないのスタイルになるので、それぞれが積み上げてきたものを基準として物事を考えるのが、一番ハッピーだというのは間違いないと思うんですよね。

ただ、そういうので揉め事が起こるっていうのも一方で事実で、そのためにルールがあって、「最低限ここまでは超えないようにしようね」と、「悪いことをしてまでカッコいいっていうのは違うよね」というのは、教育であったり倫理であったり。

集団というのは当然人が集まればルールができてきて、役割分担もできてくるじゃないですか。

だからその中である程度共有しているもの、共有しなければならないものはあると思いますけれど、南さんの話をもっと卑近な例にすると、今こういう職業が流行ってるからこれだろうねというカッコよさっていうのと、自分の積み上げてきたもの、自分のこれまで感じてきたもの、人それぞれの感覚での今これだよねというカッコよさとは、大きな違いは本来はあるはずで、前者のほうで頑張っていい感じになってもモヤモヤすると。後者の方が、これが燃えるんや、みんな微妙と言うけどやろうやっていうのがあった方が燃えるみたいな。

僕はそういう人を一番カッコいいなと思うんですけど、そういう時のどっちに行くかの基準って、南さんが仰ってた意味での美醜というか、自分のスタイルみたいなところなんじゃないかなと思います。

 どのキャリアを選んだら正しいのかとか、どっちの人生が最終的に得なんだろうみたいな発想でやっていると、どこかで破綻すると思うので、心が熱くなるもの何だろうという生き方の方がいいだろうなという気がするんですよね。

司会 美醜、あるいはカッコいいかカッコよくないかっていうところを、自分で思えばいいんだというのは言葉では分かるんですけれど、自分が実際にカッコいいかどうかということについて、他人に評価基準を求めているというところはないんですかね。難しい話ですけれど。

水島 僕は多分にあると思いますね。何かを成し遂げたりとかある一定のところまで行ったら内なるもので全て説明できる時が来るのかもしれないですけど、自分は、まだそこまで行けていないので、外から見るために人にフィードバックをもらうということをとても大事にしています。

困っていることや、悩んでいること、あるいは熱いと思っていることを話した時に、本当に信頼している人がサクッとこれダメとか、それいいじゃんとか、それお前らしいお前らしくないとか言ってくれることで、考えがまとまっっていったりします。

僕は自分で自分のことが見えていないことが多いので、それがあって初めて自分を定義できています。でもそういうところってありますよね?外部からのフィードバックで自分を再確認するみたいな。

司会 人によるのかなという気もしますけれど。南さん、逆に自分で完結できるという強さを言うとまた違うような気がするんですが、その点いかがでしょうか?

 僕もめちゃめちゃ弱いですよ。

人の目を気にして生きてますよ。判断を自分の中でやろうとしているという話と、人を気にしないっていうのは全く別の話で、人間なんて相対的な生き物なので、絶対的な自分なんて存在しないじゃないですか。

自分っていうものを定義づけるのは、人とどう違うかっていうことでしか定義できないので、そういう意味では相対的に捉えてますけどね。

司会 平栗さんが仰っていた、身近な家族を幸せにすることは、僕はすごくあると思うし、そういう風に思っている方はたくさんおられると思います。

もしかすると、それができた自分をカッコいいかなっていうことなのかもしれないけれども。

平栗 結局、自分をカッコよくというのは、気持ちよく死にたいから、そのためにというとそれだけでしょうね。

先ほど仰ってた、カッコいいというのは相手からカッコいいって思われることなんじゃないかっていうのは、先ほどちょっと考えたんですが、少し違うなと思いました。

その時に相手にカッコいいって思われる選択をしようとすると、それは結局正誤の選択になってしまう。

司会 そうなんですよね。

平栗 ただ、一方、自分がカッコよく生きたいという判断基準の中にも、やっぱりこう、人からもよく見られたいというか、蔑まされたくはないみたいなところはあって、それはカッコいいかどうかの判断基準の要素の中に入ってくるんだろうなと思いました。

余談なんですが、僕も、東京大学の法学部に入った時は、わーっともてはやされて、人生楽勝とは言わないけれど、まあまあと思っていたんですよね。

結構なめてて、実際31歳になって無職になって職歴なしになってみると、やっぱりね、すごかったです。

周りの反応とかね。人はこんなにどん底になるんだ、みたいな。こんなに周りからの信用もないし、友達も一気に態度変わるし、社会はそれなりに評価してるんだなって。

ちゃんとしてない人を排除しようとするんだみたいなのをすごく感じましたね。

司会 どんなことをされたり言われたりとか?

平栗 もう本当にね、態度が全然変わりますよ。

すごく仲良くしていたのに、メールを送ってもそっけなかったりとか。僕、最後に落ちて31歳無職職歴なしが確定した時って、本当にどん底なわけですよね。

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それまで結構仲良くしてきた奴も、全然連絡くれなかったりとか、もうなしのつぶてですね。

実際に会っても、すごく上から目線になってきたりとか。もうすごかったです。

あの体験はすごい新鮮でしたね。その中でも、freeeを紹介してくれた友達のように、必死に親身に助けてくれようとする人達は確実にいて、そういう意味では本当に身近な人達を僕達は応援していかなければいけない。

そういう人達を、僕は自分達の力で助けたという気持ちはすごくありますね。

司会 かなりそこは葛藤というか、その前後で自分自身が変わったっていう感じはあるんですか?

平栗 想像はしていたんですけど、実際味わってみると結構きつかったですね。精神的にも。

あ、ここまで人と社会は変わるんだなと。

司会 それを受けた時に、やっぱりきついから、人間ですから、きついことって嫌なわけじゃないですか。

平栗 そうですね。

司会 きついところから離れたいと思うじゃないですか。そういう思いがドライブしていたのか、それともさっきの少数の助けてくれる人への恩返しというのが…

平栗 それを言うと、僕のモチベーションは、家族を幸せにしたい、親もすごく大事にしたい恩返ししたいということでした。

身近な人への恩返しをしたいというのはすごく大きいんですけれど、一方で社会からの拒絶みたいなものを味わってしまったので、成功者になりたい気持ちも、ちょっと割合増してきてるんですよね。

これまではどうでもよかったんですけれど、ちょっといい車に乗りたい、いいマンションを買いたい、そういうのが自分の中で増してきますね。

(続)

編集チーム:井上真吾/小林 雅/Froese 祥子/渡辺 裕介

続きはこちらをご覧ください:未来は過去の延長線上にしかないことを知ってしまう40歳の絶望

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