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「新シリーズ 世界の偉人伝 (シーズン1) 」全9回シリーズの(その8)は、楽天小林 セイチュウさんの偉人、福沢諭吉についてのプレゼンです。日本人の誰もが知る有名人でありながら、改めてその軌跡を聞くと早熟の天才であり、イノベーターであり、時代の先駆者であることがわかります。あなたはどれだけ福沢諭吉の功績を知っていますか? ぜひご覧ください!
ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に議論し、学び合うエクストリーム・カンファレンスです。 次回ICCサミット KYOTO 2021は、2021年9月6日〜9月9日 京都市での開催を予定しております。参加登録は公式ページをご覧ください。
本セッションは、ICCサミット FUKUOKA 2021 プレミアム・スポンサーのリブ・コンサルティング様にサポート頂きました。
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【登壇者情報】
2021年2月15〜18日開催
ICC FUKUOKA 2021
Session 12E
Nizi Projectから学ぶ採用と人材育成の仕組みとは?
Supported by リブ・コンサルティング
(スピーカー)
石川 善樹
公益財団法人Well-being for Planet Earth
代表理事
小林 正忠
楽天株式会社
Co-Founder and Chief Well-being Officer
深井 龍之介
株式会社COTEN
代表取締役
丸 幸弘
株式会社リバネス
代表取締役 グループCEO
(モデレーター)
井上 真吾
ベイン・アンド・カンパニー・ジャパン
パートナー
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最初の記事
1. 新シリーズ誕生! 登壇者が選んだ「イチオシ偉人」を語る
1つ前の記事
7. 偉人とは、死してなお世の中にインパクトを与え続けるものである
本編
井上 では正忠さん、締めでよろしくお願いします。
正忠 僕の話は皆さんのような感動がほぼない話ですが、みんなが知っている福沢諭吉の絵が欲しかったので、妻に自宅で写真を撮って送ってくれと頼みました。
(一同笑)
井上 さすが、楽天に25年近くいると(笑)。
石川 配当が毎年毎年すごいことになります(笑)。
正忠さんが選んだ偉人は、慶應義塾大学の創立者「福沢諭吉」
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小林 正忠
楽天グループ株式会社
Co-Founder and Chief Well-being Officer
1994年慶應義塾大学卒業(SFC1期生)。1997年楽天創業から参画し、ショッピングモール事業責任者として営業本部、大阪支社、マーケティング部門、国際事業等の立ち上げを行う。その過程で、6人の日本人組織が100人、1,000人、10,000人、20,000人に拡大し、70国・地域を超える多国籍の人財を有し、国内19支社/世界30カ国・地域の拠点で事業展開した際に国内外のマネジメント手法の違いを体験。2012年4月米国へ赴任し米州本社社長を務め、2014年9月シンガポールを拠点を移しアジア本社の社長を歴任。グローバルマネジメントを体験した後、2017年末にアジア代表を離れ、現在は人々を幸せにする役割を担う「CWO:チーフウェルビーイングオフィサー」。2001年慶應義塾大学に「正忠奨学金」を創設するなど若者の育成に力を入れている。2011年世界経済フォーラムYoung Global Leadersにも選出。5児(娘3人息子2人)の父。
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正忠 まあ冗談はさておき、皆さんご存じの福沢諭吉(1835~1901)です。
僕は6歳の頃から慶應義塾に入学しているので、「福沢先生」とつい言ってしまうのですが、福沢先生についてお話ししたいと思います。
石川 慶應では先生と呼んでいいのは……
正忠 福沢先生だけですね。
▶[慶應義塾豆百科] No.18 君(くん)(慶應義塾大学)
「偉人とは」と、自分で色々と考えてみました。
発見やビジネスで世界に影響を及ぼすような人だろうと思いましたが、いや、本当にそうなのか?と思い直しました。
福沢諭吉は「世界の偉人」
正忠 別にそういう人でなくてもいいのではないかと思って、「福沢先生は偉人ですかね?」と、ある人に聞きました。
そうしたら、「福沢先生は世界の偉人で、彼なしでは日本の西洋化はなく、今の日本はない、今の日本の世界に対しての貢献もなかっただろう」と。
「西洋の概念を日本語にちゃんと翻訳して、新たな概念として日本人に植え込んだ。そういう意味において彼は偉人だ」と、昨夜、川上全龍さんとチャットしていました。
石川 京都の妙心寺のお坊さんですよね。
正忠 はい。このスライドは1時間半ぐらいで出来上がったのですが、ICCのセッションに登壇している全龍さんに、「今こんなスライドを作っているんですよ。福沢先生は偉人ですかね?」と聞いたら、こんな返事をくれて、やはり偉人なんだな、良かったと思いました。
▶川上全龍氏が世界中のトップエリートに説く瞑想・マインドフルネスの効果
下級武士の子として生まれる
正忠 皆さんご存知だと思いますが、福沢先生は生まれがすごくいいわけではなくて、下級武士の子として生まれ、1歳の時に父親を亡くしてしまいます。
貧しかったのですが、たまたま父親が儒学者ということもあり、兄もいたので、ちゃんと勉強していたというほどではなかったのですが、幼い頃から漢学を徐々に学んでいました。
15歳で周りの子を見渡して、みんな勉強しているのに自分は勉強していないと思い、ちゃんとやらなければいけないと勉強し出して、勉強を始めたら数年にして漢学者と渡り合えるようなレベルにまでいきました。
さらに、オランダ語をちゃんと勉強しようと長崎に渡り、数年して緒方洪庵の適塾(※) に入ります。
▶編集注:蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾(Wikipedia)。
石川 緒方洪庵は医師ですね。
「ヘルス」という言葉を最初に日本に持ってきたのは、福沢諭吉ですものね。
正忠 そうそう、われわれが今当たり前だと思っているカタカナ語はほとんど彼が翻訳しています。
石川 「養生」しかなかったですものね。
正忠 「健康」という概念がなかったんです。
彼は適塾に入って、たった2年で塾頭になってしまいます。
23歳で後の慶應義塾となる蘭学塾を開設
正忠 次は江戸に行こうと言って、蘭学塾を創るのですが、それが後の慶應義塾になります。
石川 「パブリックスクール」を日本語に訳して「義塾」なんですよね。
正忠 そうです。時代は明治に入る直前ですけれども、元号が「慶應」だったので「慶應」と付けています。
有名な話ですけれども、築地から横浜まで36km歩いていって、横浜に着いて自分のオランダ語力を試そうと思ったら看板も英語で読めないし、話しても全然違う言葉だし、しょげて36km歩いてまた築地に帰ってきます。
でも、もう1回ゼロから英語を勉強し直して、25歳で咸臨丸でアメリカに渡ります。
さらにはその少し後にヨーロッパに行って、そこで刺激を受けます。
石川 そして、26歳で日本で初めて英和辞書(『増訂華英通語』)を出しています。
正忠 そうそう、英語と中国語の辞書をアメリカで買ってきて、中国語のところにカタカナで読みをふって、日本語にして出版しています。
31歳で『西洋事情』、37歳で『学問のすゝめ』を出版
正忠 そして、皆さんご存知の『西洋事情』は、当時人口3,000万人ぐらいの日本で、20万部売れたベストセラーです。
徳川慶喜も読んだと言われる『西洋事情』によって、日本人とは全然違う人たちが世界にはいて、違う考え方をしていることを広めました。
これから日本が世界に伍すためには国民一人ひとりがレベルアップしていかないといけない、幕府や官が強くなるだけではなくて、民が一人ひとりやらなくてはいけないと説きました。
そのためには一人ひとりがちゃんと勉強しなくてはいけないと言って、『学問のすゝめ』を書き下ろします。
これも100万部を超える、あり得ないベストセラーになります。
『学問のすゝめ』がすごいのは、当時、本を読むことができる人はなかなかいなかったのですが、初めて平たい言葉で、庶民が読んでも分かる書物にして学べるようにと彼が徹底したことです。
45歳で「交詢社」を創設
正忠 さらにその後、慶應義塾で人を育て、続々と輩出して、産業をつくっていきます。
慶應義塾には三菱の創業者の岩崎弥太郎の息子が入学しましたが、そういうビジネスリーダーたちが交わる場所をつくらなくてはいけないと考えます。
25歳で渡米、27歳で渡欧、もう1回渡米しますが、3回の中で「ソサイエティ」というものを学んできて、人間交際(じんかんこうさい)が必要だと感じ、経営者をつなげていくサロンである、日本初の社交場「交詢社 」(※)ができ上がるのです。
▶編集注:1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブ。
それだけではなく、当時政府は国民に伝えたいことを新聞で発信していたのですが、初めて政党によらない新聞「時事新報」を作って、日本人のレベルアップを図りました。
そして、66歳で脳卒中によって亡くなります。
福沢諭吉は明治維新の前33年と、明治維新からの33年の66年を生きました。
福沢諭吉が持ち込んだ新しい概念
正忠 今日なぜこの話をしたかというと、彼が多くの新しい概念を持ち込んだことを伝えたかったからです。
日本で今当たり前になっている保険制度を外国から持ってきたのも彼ですし、日本銀行設立では中央銀行という概念を持ち込み、ブックキーピング(簿記)も今でこそ当たり前となっていますが、「借方」「貸方」を日本語に持ち込んだのも彼です。
「世間」という概念だった日本のそれを、「社会」というものにアップデートしたほか、それまで「遠西」と呼び、今では当たり前になっていますが、「西洋」という単語すらなかった日本に「西洋」という概念を持ってきました。
「蒸気機関車」も「蒸気」という漢字2文字を「汽」の1文字で表したり、3文字を2文字にするなどを、彼はたくさんやっています。
辞書の「V」のところに振るカタカナがなくて、初めて、「ウ」に濁点を付け「ヴ」にするという非常にクリエイティブなこともしました。
漢数字にゼロが存在しなかったため、「簿記」の表記で困った時には、今まで「二千二十」としていた表記を「二〇二〇」と書けばよいとしたのも彼です。
石川 そうなんですか!?(笑)
正忠 そうなんです。非常にクリエイティブですよね。
皆さんご存知の、これらの単語も、日本にはないからと彼が作りました。
石川 「家庭」もなかったんですか?
正忠 この概念を、「家庭」という文字にしたのも彼らしいですよ。
『学問のすゝめ』が売れたので、バチもんがたくさん出回ってしまって、それを守るために「コピーライト」を自分でやるということを始めました。
「為替」も「経済」も中国にはありましたが、中国で使っていた「経済」と今僕たちが使っている「エコノミー」の意味の「経済」とでは違いがあり、今は世界的に日本で使っている「経済」の意味となっています。
▶“ヴ”を生み出したのは福澤諭吉でした。「福澤諭吉が広めた日本語」(家庭画報.com)
『西洋事情』でインターネットの出現を予言?
正忠 最後に、衝撃的なのが20万部売れた『西洋事情』の中に、右のようなページがあります。
これは恩師の村井 純さんから聞いたのですが、イラストの上に書いてある文字は「蒸汽」「濟人(エコノミスト、商人)」「電氣(電気)」「傳信(伝信)」ですが、何がすごいって地球にアンテナが立って、そこに飛脚みたいな者が走っているのです。
福沢諭吉は、もう『西洋事情』の段階でインターネットの出現を予期していたのではないかというのは、村井さんがおっしゃっていたことです。
それぐらい未来を見据えていた男、福沢諭吉を皆さんにご紹介したいと話をしてきました。
(続)
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続きは 9. 議論で深まる偉人からの学び!予想を超えた盛り上がりでシーズン2決定!【終】 をご覧ください。
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編集チーム:小林 雅/浅郷 浩子/尾形 佳靖/戸田 秀成/小林弘美
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