ICC FUKUOKA 2024のセッション「大人の教養シリーズ 人間を理解するとは何か?(シーズン11)」、全5回の最終回は、中村 直史さんが落語の面から「老い」を考察。下手になった自分を曝し続けた晩年の立川 談志から、「老いてしか伝わらないこと」を推察します。最後まで人間を理解しようと試みる真剣な議論をお楽しみください!
ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に学び合い、交流します。次回ICCサミット KYOTO 2024は、2024年9月2日〜9月5日 京都市での開催を予定しております。参加登録は公式ページをご覧ください。
本セッションのオフィシャルサポーターは エッグフォワード です。
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【登壇者情報】
2024年2月19〜22日開催
ICC FUKUOKA 2024
Session 2F
大人の教養シリーズ 人間を理解するとは何か?(シーズン11)
Supported by エッグフォワード
(スピーカー)
石川 善樹
公益財団法人Well-being for Planet Earth
代表理事
井上 浄
リバネス
代表取締役社長CCO
中村 直史
五島列島なかむらただし社
代表 / クリエーティブディレクター
福田 真嗣
メタジェン
代表取締役社長CEO
(モデレーター)
村上 臣
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▶「大人の教養シリーズ 人間を理解するとは何か?(シーズン11)」の配信済み記事一覧
石川 では、いよいよ中村さん。
村上 はい、この腸内細菌原理主義者の話を受けて…今日はアムロという言葉が発明されたので、かなり会話が進みますね(笑)。
井上 でもやはり、生物学的年齢と社会に生きる人間としての年齢のバランスはすごく重要です。
ずっとデータを追っていても、「まだ不明です」というところに行き着いてしまうので、全然面白くないのです。
社会的動物としてのデータもきちんと取れれば、影響を数値化できますが、その数値化の物差しがないというのが現状なので、エピクロックという確かな物差しを作ってみようとしています。
ここから、研究が進むのだと思います。
村上 そうですね。
井上 自分も、命をかけて取り組もうと思っています。
村上 ここまでは、社会や外から見たものと中から見たものを深掘りし、腸内というさらに中についても話しました。
再度、外である社会に話を戻したいと思いますので、中村さん、お願いします。
中村 中村です、コピーライターの仕事をしています。
このような、企業のコピーを考える仕事です。
ICCスタンダードの言語化もしています。
落語という側面から老いを考える、中村 直史さん
中村 全く科学的ではない話になりますが、僕は落語を聞くのが好きだったので、落語という側面から老いを考えてみようと思います。
立川談志さんの名前は、おそらく皆さんも聞いたことがあると思います。
▶️【公式】立川談志 落語&ドキュメント by 竹書房(YouTube)
ちなみに、この会場に立川談志ファンだという方はいらっしゃいますか?
手が上がらないですね・・・ああ、良かった。
立川談志ファンはめちゃくちゃ怖い人たちなので…。
(会場笑)
村上 (笑)
中村 お前ごときが立川談志師匠を語るなと言われるだろうと思ったので、いるかヒヤヒヤしたのですが、もしいたらごめんなさい。
表面的な話になるかもしれないですが、彼の晩年の高座、つまり舞台のことをお話ししたいと思います。
このスライドの写真も、晩年の写真です。
談志師匠は、もう亡くなっています。
立川談志師匠は、落語界でもものすごい天才と言われていました。
僕が談志師匠の落語を生で見始めたのは、彼の晩年の頃です。
「落語好きなら談志師匠の落語は見ておかなければいけない」という存在だったのですが、僕が見始めた時はもうかなり衰えが見られる高座でした。
例えば、講演後に自分への不満を語る、「こんな芸しかできなくてごめんね」と会場にやたら謝る、イライラして叫ぶこともありましたし、喉のがんだったこともあって根本的に声が出ない、そんな状態でした。
僕はそれを見ながら、「だったら、やらなければいいのに」と思っていました。
例えば 音楽のコンサートに行ったとして、歌い終わった後に「今日は下手でごめんね」と言われるようなコンサートなんて、ないですよね。
そんなことを言うくらいなら、コンサートをやらないですよね。
でも、談志師匠は続けていて、僕はそれが嫌だなと若干思っていたのです。
一方、若き日の立川談志の録音はたくさん残っています。
皆さん、これはぜひ、聞いてみてください。
▶【公式】立川談志 落語&ドキュメント by 竹書房(YouTube)
村上 もうすごいですよね。
中村 内容以前の気持ちよさがあるのです。
僕は、若き日の立川談志の落語はビートだと思っています。
聞いているだけで気持ちがいい。
ちなみに、古典落語というものは昔から受け継がれた同じ話を、それぞれの落語家の語り方で語ります。
不思議ですが、語られる話は同じだけど、その人がやれば特別だと感じられることがあるのです。やる人によって、全然変わる。
談志師匠の若い時のもので僕が特に好きなのは、「真田小僧」というネタです。
▶立川談志:真田小僧:昭和43年9月 ta tawakeチャンネル(YouTube)
聞いていると、そのリズムだけでウキウキしてくるような、立川談志の素晴らしさを感じられます。
若い頃の高座を生で見てみたかったなと本当に思いながら、よく録音を聞いていました。
老いた立川談志から目が離せなかったのはなぜか
中村 落語は関西と関東で違いますが、関東の落語は、言わば江戸の粋を伝えるものです。
老いてしまった談志は粋ではない。粋なものを伝えようとしているのに本人が粋ではないのはどうなんだろう、と感じてしまうわけです。
だから、もうやらなければいいのにと思いながら見ていました。
それでも、なぜか通い続けるのです。
何か目が離せないのです。
この、目が離せないのは何なのだろうとずっと考えていました。
ちなみにこのスライドの写真は、立川談志が自分の日常風景を自分で撮影したドキュメンタリーの一場面です。
生きていくっていうのはつらいね、と曝け出しているのです。
古典落語には、大ネタと言われる「死神」という大作があって、立川談志の十八番と言われています。
▶【死神】 立川談志(平成17年) Koko de Su チャンネル (YouTube)
ある日、その演目の最重要場面でセリフを忘れ、その場面を飛ばしてしまったので話が完結しないという高座を、僕は目の前で見てしまいました。
芸としては、明らかに失格ですよね。
でも、それを含めて、ヒリヒリしすぎて目が離せないのです。
固唾を飲んで、談志が失敗しているのを観客全員で見ているという場面があったということです。
僕は、ふとその頃の談志師匠を思うことがあります。
老いた立川談志を見ていた私たちは、一体何を見ていたのか。
立川談志といえばという言葉に、「落語とは業の肯定である」というものがあります。
業という言葉は仏教用語から来ているのだと思いますが、立川談志の言う意味合いは、喜びも悲しみもおかしさも、ろくでもなさもバカさもはかなさも、人間のもつあらゆる側面全てであり、それを肯定することが落語だということです。
つまり、「落語は成功譚でも人生をより良く生きるためのノウハウでもなく、ただただ人間の肯定なのだ」と言っていたのです。
これが実際に立川談志が発していた言葉です。
「落語の目的は人間の”業の肯定”なんです。人間て眠くなると寝ちゃうでしょ。やんなきゃいけないと思ってもやらない。それを肯定させてやるのが我々の稼業。だからいいんです落語っていうのは」
落語は、ただただ人間のなすこと全部の肯定だと談志師匠は言う。
それで思ったのですが、もし落語がうまさを競う競技だったら、もしくは効率的に人生訓を伝えるノウハウだったら?
落語のことをそういうものだと思っている人は割といます。
だけど、立川談志はそうは思っていません。
もしそうであれば、立川談志は下手になった自分を曝し続けなかったのではないかと思いますし、そもそも落語がそういうものであったら、立川談志は落語家になろうとは思わなかったのではないかと思います。
老いた立川談志は、一体僕たちに何を見せていたのかというと、 本人が言った通り、「人間の業」そのままを見せていたのではないか、それを僕らは見ていたのではないかと考えています。
やるせなさ、情けなさ、ダメになっていくこと、あきらめの悪いこと、老いていくということ、そして偉かろうが金を持っていようが何だろうが全員等しく死んでいくこと。
僕たちはそれを、落語の出来の良さや本人の能力を取っ払った上で、見せられていたのではないかと思います。
だから、目が離せなかったのではないかと思います。
老いてからしか伝わらないことがある
中村 例えば僕もこの間、父を介護施設に入れたばかりですが、(村上)臣さんの言っていた義母の介護など、言葉は悪いですが、老いと向き合うことは、めんどくさいことの連続です。
だけどきっと、目を離してはいけない。
なぜなら、そうでなければ、人間を生きる人間ではなく、成功という競技を生きる人間になってしまうということを、立川談志師匠は自分の全部で伝えていたのではないかと思います。
落語を見ていると、老いてからしか伝わらないことがあると感じる場面があります。
例えば、立川談志の弟子に立川志の輔という人がいます。
ゴホンといえば龍角散のCMや、「ためしてガッテン」に出ていた人です。
▶️志の輔のプロフィール(志の輔らくごウェブサイト)
テレビ番組だけでは立川志の輔のすごさは分からないのですが、彼の落語は本当に素晴らしいのでぜひ見に行ってください。
立川志の輔は、立川談志の古典落語に憧れて入門しましたが、立川談志の落語を見て、自分はそうなれないと感じ、古典ではなく新作落語を作るようになりました。
彼が作った演目に「歓喜の歌」という、町内のおばさん合唱団をテーマにしたものがあります。
▶️歓喜の歌 (落語)(Wikipedia)
▶️聴きやすい落語屋さんたっぷり【立川志の輔 三昧特集】(およそ12時間)歓喜の歌(YouTube)
立川談志は自分の弟子の高座を見に行くことはこれまで一度もなかったのですが、人生で一度だけ、志の輔師匠の「歓喜の歌」を客席で、客として見たことがありました。
僕はたまたま、幸運にもその日、彼のすぐ近くに座って見ていたのです。
僕は「うわ、談志が見ている」と、志の輔よりも談志が気になっていました。
その時には既にがんの末期を迎えていたので、談志は痩せ衰えていました。
公演後、志の輔師匠が「実は今日、私の師匠の談志が見に来ています」と紹介をしたのですが、そこで談志師匠は、弱々しく立ち上がり、志の輔に向かって、一言も話さず、ただgoodと親指を立てて見せたのです。
談志は乱暴者で本音でしか話さない、つまりお世辞を言わない人だったので、弟子を褒めることがなかったのです。
だけど、それまでお世辞を言わなかった人が、最後の最後に弟子に向かってgoodと親指を立ててみせた、その背景には彼の一生分の「この人は嘘をつかない」という積み重ねがあるので、その行為はすごく大きな意味を持ったのです。
会場でそれを見ていた人たちも志の輔も、「おおっ」となったと思います。
老いるということは、失敗や挫折、なさけなさ、ろくでもなさを経験するということですよね。
それらを経験しなければ伝えられないこともあるのではないかと僕は考えさせられました。
生きて 苦しんで 生き恥をさらす
中村 これはある晩、ぼーっとテレビを見ていた時にNHKで流れてきた映像です。
もうとっくに亡くなっていますが、8代目林家正蔵と呼ばれる、林家彦六という人がいます。
林家正蔵は、落語会ではすごく重要なビッグネームで、これを受け継げるのは相当名誉なことですが、色々あって林家彦六は、林家正蔵という名前を返却しなければいけない憂き目にあったのです。
晩年、林家彦六という有名ではない名前に戻って落語を行いました。
そしてここに、諦めようとする一役者の話である、「中村仲蔵」という演目があります。
▶林家正蔵(彦六)「中村仲蔵」(「寄席と忠臣蔵②」能条三郎さんによる解説付き) らくチャンチャンネル (YouTube) ※7:30ごろから登場
みんなが知っている話なのですが、正蔵というすごい名前を失って彦六という老人になってから晩年に公演した「中村仲蔵」は、ものすごいのです。
弱りきったおじいさんが、ヨレヨレの声でやる「中村仲蔵」。これが素晴らしいのです。
僕がそれをたまたまテレビで見たちょうどその頃、仕事はうまくいかないし、コピーライターとしての自分の才能はクソで良いことなんてないと思って悩んでいる、そんな状況でした。
そんな時に「中村仲蔵」を聞いて、立ち直りました。
それ以降、そんな気分になる時は繰り返し見ている演目です。
YouTubeでも、最晩年ではない林家彦六の「中村仲蔵」は見られるので、皆さんもこういう気分の時には見てみてください。
というわけで、僕が今日伝えたいのは「Let’s 生きて 苦しんで 生き恥をさらしましょう」という、身も蓋もない結論です(笑)。
老いというものは、できれば体験したくない、楽しいものではないかもしれない。でもやっぱりそれをぜんぶひっくるめてこそ人間じゃないか。そこをごまかして、人間を生きたぞ、とは言えないような気がするんです。
村上 ありがとうございます(笑)。
中村 これは、僕の隣に住んでいて、僕のロールモデルであるおばあちゃんの家の写真です。
今日の話を聞いた人は、「とはいえ落語家は天才たちで特別な存在だろ」と感じたかもしれません。が、僕の隣に住むまったく有名でもなんでもないおばあちゃんは、目の前に畑と草むらのある古い家に住んでいて、それが最高に良いと感じるのです。
自分が生きられる範囲で、めいっぱいできることをしており、彼女の老いた体だけではなく周りの環境も含めて老いていると感じ、かくありたいと思いました。
この人が死んだら、この家も朽ち果ててなくなっていく。でもそのあとに別のいのちたちが芽吹く。そう考えたら、人知れずただ老いて朽ちていくことは決してネガティブなことじゃなく、別にかっこいいことでもないけれど、それでいいじゃんと思います。それを言いたくてこのスライドを用意しました。
村上 中村さん、ありがとうございました。
本セッションのおさらい
村上 残り1分となりました。
老いとは世界的に大きいテーマですが、特に日本にとってはすごく重要です。
今日はまず社会的側面から、長寿村からの学びを善樹さんに共有いただきました。
年をとればとるほど評価される社会があるのではという問いかけの次には、浄さんから指標がないこと、老いとは病気であるという解釈のもと、科学が進んでいることについてお話しいただきました。
そして腸内細菌原理主義者の福田さんから、所詮我々は腸内細菌に操られているにすぎないこと、若いアムロが重要であること、さらに、食事を含めてどう健康を保つかについてお話しいただきました。
外見や見た目と体の中を分けて考え、社会的動物である人間の外見がどう見えるか、老いとどう付き合うのかにも言及し、最後に中村さんからは、談志師匠の例をもとに、生き恥を曝せばいいというメッセージを頂きました。
老い自体をそのまま受け止めた上で、我々が自身の老いをどう捉えるか、他人の老いをどう捉えるかについての結論は今日全く出ていませんが、お年頃になった皆さんが、どう老いと向き合っていくかについて深く考える一助、きっかけになれば嬉しいなと思います。
私も色んなことに向き合っています。
ちなみに、私は高校生の時に談志師匠の高座を見たことがありますが、その時は機嫌が悪くて上演開始時刻の1時間後にスタートしました(笑)。
(会場笑)
やる気が出なかったのか、しぶしぶ舞台に出てきて、「今日、本当にやるの?」みたいな感じでしたが、いざ始まってみると、バッチリ決まっていてすごく良かったです。
ということで、1分ほどオーバーしてしまいましたが、最後に重要なお願いです。
このセッションのシーズン12が開催されるかどうかは、皆さんのご意見にかかっております。
YouTubeみたいで申し訳ないのですが、高評価をですね…。
(一同笑)
お願いできれば、幸いでございます!
井上 次があるのか!?
村上 アンケートでの高評価が我々に対する何よりのエールでございますので、ご理解ください。
皆さんにとって、深く考える時間になれば幸いです。
登壇者の皆さん、ありがとうございました。
お聞きいただいた皆さん、ありがとうございました。
(終)
本セッション記事一覧
- 「老い」から人間を理解することに迫るシーズン11
- 老いに対してポジティブだと寿命が7.5年長い
- 研究が進む生物学的年齢の巻き戻しと、人生100年時代に考える「老い」の価値
- 腸内細菌原理主義者が力説、「若いアムロ」で老化を改善する仕組み
- 生きて 苦しんで 生き恥をさらすことも含めてこそ人間である
編集チーム:小林 雅/星野 由香里/浅郷 浩子/戸田 秀成/小林 弘美