プロイセンの「弱みを強みに変える」戦略とは | 【ICC】INDUSTRY CO-CREATION

3. プロイセンの「弱みを強みに変える」戦略とは

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歴史ファンのみなさんお待たせしました、シーズン4に突入した「歴史から学ぶ『帝国の作り方』」、今回のテーマはプロイセンです。全7回シリーズの第3回目は、悪条件が揃って誕生したプロイセンの戦略について解説します。質実剛健、節約といったメンタリティ、移民政策など、現在のドイツの文化につながるようなものが、すでにこの時点で見えてきています。戦略によって領土を拡大したプロイセンに、ナポレオンが対峙します。ぜひご覧ください!

ICCサミットは「ともに学び、ともに産業を創る。」ための場です。毎回300名以上が登壇し、総勢900名以上が参加する。そして参加者同士が朝から晩まで真剣に議論し、学び合うエクストリーム・カンファレンスです。 次回ICCサミット KYOTO 2022は、2022年9月5日〜9月8日 京都市での開催を予定しております。参加登録は公式ページをご覧ください。

本セッションは、ICCサミット FUKUOKA 2022 プレミアム・スポンサーのM&Aクラウドにサポート頂きました。


【登壇者情報】
2022年2月14〜17日開催
ICCサミット FUKUOKA 2022
Session 5D
歴史から学ぶ「帝国の作り方」(シーズン4)
Supported by M&Aクラウド

(スピーカー)

宇佐美 進典
株式会社CARTA HOLDINGS
代表取締役会長兼CEO

北川 拓也
楽天グループ株式会社
常務執行役員 CDO(チーフデータオフィサー) グローバルデータ統括部 ディレクター
(登壇当時)

小嶋 智彰
ソースネクスト株式会社
代表取締役社長 兼 COO

深井 龍之介
株式会社COTEN
代表取締役

山内 宏隆
株式会社HAiK
代表取締役社長

(モデレーター)

琴坂 将広
慶應義塾大学
准教授(SFC・総合政策)

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最初の記事
1.シーズン4のテーマは、明治期の日本が手本とした「プロイセン」

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2.逆境しかないプロイセンを統治することになった「ホーエンツォレルン家」

深井 このような条件下に置かれたプロイセンは、どういう戦略をとったのでしょうか?

琴坂 これは、今日のキーチャートの1つですね。

国家予算の約7割が軍事費

深井 まず、軍事国家にしないといけませんでした。

なぜなら、先ほど斜線部になっていた土地をポーランドから取り返さないといけなかったからです。

飛び地状態だと、法律が違って1つの国家としてまとまらないし、自分の領地に行くために他の人の領地を通らなければならないなど色々な不具合が起こり、まともに統治できません。

そこで、国家予算の7割ほどを軍事費とし、超軍事国家にしていくのです。

軍事費に7割を使うということは、当たり前ですがそれ以外のことを残り3割の予算で賄わなければならないので、すごく節約をしないといけません。

すると必然的に、プロイセン人の気質は質実剛健になっていくのです。

琴坂 王様を筆頭に、すごく節約していた時代ですよね。

深井 そうです。

ですから、文化においても、フランスのように、バロック調の像に投資をするなんて戦略はとれなかったのです。

琴坂 体育会系、かつ経費に厳しい企業化したわけですね。

深井 そうです(笑)。

王様でさえ、死ぬほど節約したわけです。

琴坂 「1円以上なら俺が決済する!」みたいな(笑)。

宇佐美 こういう国からは、美味しい食べ物は出てこないですよね(笑)。


宇佐美 進典
株式会社CARTA HOLDINGS 代表取締役会長兼CEO

1972年生まれ、愛知県出身。早稲田大学商学部卒業後、トーマツコンサルティング(現デロイトトーマツコンサルティング)にて業務改善プロジェクト等に携わる。1999年インターネット領域における事業開発を行う会社としてアクシブドットコム(現VOYAGE GROUP)を創業し、2014年マザーズ上場、2015年東証一部へ。現在、事業内容としては主に日本最大級の広告プラットフォーム事業を中心にポイントメディア事業などを展開。「働きがいのある会社」ランキングで2015年より3年連続中小企業部門で1位。2019年1月1日よりサイバー・コミュニケーションズ(CCI)と経営統合し、純粋持株会社であるCARTA HOLDINGSの代表取締役会長に就任。

深井 出てこないですね(笑)、食べる物も食べられればいいよねという状態です。

節約するから、グルメを楽しむという文化は生まれなかったのです。

積極的に移民を受け入れ

深井 そして、ユダヤ人や、当時フランスで迫害を受けていたユグノーと呼ばれるプロテスタントたちを受け入れました。

人口が増えないと勝てないので、積極的に移民を受け入れることで、人口を増やそうとしたのです。

琴坂 なるほどね。

深井 そうすると、フランスではあまり起こらなかった、民族も宗教も違う人たちが1つの国にいるという状態になりますよね。

結果、合理的に統治するしかなくなります。

こうして、なしくずし的に、どんどん方向性が決まっていったのです。

琴坂 今のドイツの原型ですね。

深井 国が飛び地状態で始まったから、こうなったのです。

でも飛び地になったのは、たまたまでしたよね。

琴坂 最初はたまたまでしたが、そこで「滅亡しないぞ! 何とか生き残る戦略を作るぞ!」となって、多様な才能を受け入れ、合理的に、質実剛健に生きて予算の7割を軍事費につぎ込み、理性的なシステムを作り上げた。

その結果、あれほどの大きな国家になったわけですよね。

フリードリヒ大王が領土を統一

深井 おっしゃる通りです。

この方策をとったのが、フリードリヒ大王(1712〜1786)です。

彼は啓蒙専制君主に分類されますが、啓蒙専制君主とはそれまでの宗教や慣習に基づいた国家の決まりを、国家理性を土台として、全て理に適うように考え直そうという王様のことです。

琴坂 専制君主制のほうが良いのではないかという話の時に、よく使われる人ですね。

深井 そうですね、理性で治められる人が権力を持って支配するほうが良い企業になるのでは?という議論の際は、この人が例に挙げられます。

琴坂 詳しくは、『銀河英雄伝説』を観て頂ければ(笑)。

深井 このフリードリヒ大王が、バラバラだった領土を統一するということを成し遂げます。

それによって、辺鄙なところにある小国だったプロイセンが、一気にイギリス、フランス、ロシアと肩を並べる強国となります。

戦略が当たったということです。

琴坂 弱みがなくなっているわけですよね。

深井 そうです、弱みを克服することで彼らは強くなりました。

しかし克服する過程で形成された質実剛健、理性重視、色々な人を受け入れる、などの文化は残るわけです。

これは、フリードリヒ大王が先頭に立って戦争をしている絵です。

琴坂 当時、王様が先頭に立って戦うのは珍しかったのでしょうか?

深井 珍しいですね。

フリードリヒ大王は、最初の戦争の時に途中で逃げましたが、彼はそれが悔しかったのかもしれません。

その後はずっと、銃弾にさらされながら先頭に立つ勇敢な王様でした。

こうしてプロイセンは大きくなっていき、領土を統一します。

ここまでプロイセンがやってきたのは課題の克服という自己防衛であり、存続するために、彼らはそうするしかなかったわけです。

琴坂 答えを探そうとすると、どうすればいいかの最適解が既に見えていたという状態ですね。

フランス革命で先進的国家となったフランス

深井 そうですね、そして強くなった結果…。

琴坂 小嶋さんが火を吹きます(笑)。

▶編集注:小嶋さんは学問としてナポレオンを専門に学んでいらっしゃいました。

深井 プロイセンが強くなると、それまで強かった隣国フランスは、大きな脅威を感じますよね。

イギリスも経済的に強くなっていましたし、フランスではフランス革命(1789~1795)が起こります。

プロイセンが理性で国家を治めていた一方で、フランスでは絶対王政で、神様に認められたから自分は王様だという「王権神授説」を唱える人がいました。

それが、フランス革命によって、いきなりものすごく先進的な国になるわけです。

琴坂 小嶋さん、この時のフランス側からの景色を是非教えてもらえますか?

小嶋 ナポレオン(1769〜1821)は突然変異のように現れた天才だと思いますが、彼も戦略上の間違いを結構犯します。

この時のフランスは、将軍が非常に優秀で、兵士がフランス革命の結果、団結してすごく強い状態でした。

というのも、革命によって貴族の将軍がどんどん追放されて…。

琴坂 実力主義になって…。

小嶋 若い将軍が増えました。

ナポレオン自身も、26歳でイタリア方面軍の最高司令官になっています。

琴坂 26歳!

小嶋 それで、プロイセンはイエナの戦い(1806)(※) で、ナポレオン軍にこてんぱんにやられて、これじゃダメだという結論にたどりつくというわけです。

▶編集注:1806年に起こったナポレオン1世とプロイセン軍の最初の戦闘。この結果、プロイセン全土は約7週間でフランス軍に占領され、屈辱的なティルジット条約を締結した。しかし,この敗戦を機にプロイセンでは愛国心が高まり、シュタイン・ハルデンベルクらの改革が始まった(コトバンク

深井 そうなんです。

琴坂 フランス側から見た時、プロイセンは、単純に敵だから潰すということだったのでしょうか?

それか、何か背景があったのでしょうか?

小嶋 1対1の関係というより、強かったフランスを抑え込むための対仏大同盟(※) が、何度も何度も組まれたのです。

▶編集注:フランス革命の波及とナポレオンの大陸支配に対抗するため、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国が結んだ同盟。1793年から1815年にかけて7回にわたって結成された(コトバンク

確か7回くらい組まれたと思います。

プロイセンとオーストリアはフランスに近いので、その2国との戦いになりやすかったということですね。

琴坂 なるほど、ありがとうございます。

ナポレオンがプロイセンの領土を奪取

宇佐美 この時のフランスは、国民国家的というか…、国民がまとまっていて、その上に強いリーダーであるナポレオンがいたという感じなのでしょうか?

3. 第一次世界大戦で、国民意識が芽生えた「国民国家モデル」の帝国が勝った理由

小嶋 「俺たちフランス人だよね」という国家観を初めて持った頃ですね。

宇佐美 プロイセンでは、国民国家という意識は弱かったのでしょうか?

深井 弱かったですね。

プロイセンとフランスの大きな違いを説明すると、プロイセンはトップダウン型で統一しようとしており、フランスはボトムアップ型を採ろうとして、その結果、ものすごく先進的な国家が出来上がったのです。

小嶋 色々な画策はしていましたが、ナポレオンに皇帝になってほしいと、あくまで国民が投票で彼を選んだのです。

琴坂 真逆のスタイルの国が、隣同士にあったということですね。

深井 プロイセンは、君主制という古い制度のもとでなるべく頑張って、合理的に考える国でした。

でも、フランスには勝てなかった。

フランスが、強くなったプロイセンを抑え込む形でプロイセンの力を削り、プロイセンは、半分くらいの領土をナポレオンに奪われてしまいました。

それくらい、ナポレオンは強かったのです。

プロイセンから見ると、領土を半分奪われてしまったのですが、ナポレオンはいなくなります。

そしてヨーロッパでは、ウイーン会議 (1814〜1815)(※)という会議が開かれ、「ナポレオンは怖かったよね、ナポレオン登場前の時代に一旦戻ろう」ということになりました。

▶編集注:1814年から15年にかけてウィーンで開かれた国際会議。フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序の回復を図ったもので、ウィーン議定書が調印され、革命前の状態への復帰をめざす正統主義と、大国の勢力均衡とを二大原則とするウィーン体制が成立した(コトバンク)。

結果、プロイセンの領土は一旦回復します。

しかし周りにはまだ、人口が多くて国民国家にもなり、近代化も早かったフランス、産業革命を起こしたイギリス、国土がものすごく広いロシアがいるのです。

琴坂 まだまだ危ない感じですよね(笑)。

深井 そして南には、未だに強い名家・ハプスブルク家のオーストリアです。

(続)

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続きは 4.パワーバランスを重視して勝つ稀有な政治家、ビスマルク をご覧ください。

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編集チーム:小林 雅/小林 弘美/浅郷 浩子/戸田 秀成/大塚 幸

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